クラシック、オペラの粋を極める!

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2020/11/1 フィガロの結婚 ~庭師は見た!~

2020年11月1日   フィガロの結婚 ~庭師は見た!~  東京芸術劇場シアターオペラ
モーツァルト   フィガロの結婚
指揮  井上道義
演出  野田秀樹
管弦楽  ザ・オペラ・バンド
ヴィタリー・ユシュマノフ(アルマヴィーヴァ伯爵)、ドルニオク綾乃(伯爵夫人)、小林沙羅(スザ女)、大山大輔(フィガ郎)、村松稔之(ケルビーノ)、森山京子(マルチェ里奈)、三戸大久(バルト郎)、黒田大介(走り男)    他


「やっぱ、行かなければ良かったよな」という思いに駆られた残念な公演。

もっとも、そうなることは何となく分かっていたけどさ。多分そういう感想になるんじゃないかと、想像していたんだ。

公演タイトルに「庭師は見た!」というのがくっ付いた、国内で有名な演出家野田秀樹の演出版。
アルマヴィーヴァの伯爵夫婦とケルビーノが幕末の日本・長崎に黒船に乗ってやってきて・・・・なんて前フリがある時点で、「あー、これはもうモーツァルトのオペラじゃなくて、モーツァルトの音楽を利用した野田の演劇だな」というのは、最初からはっきり見えていた。
ユーモア、夢と笑いと、ちょっぴりの皮肉が混じったドタバタ喜劇。
ジャンルで言えば、エンタメ。

いっそのこと、とことん割り切って楽しんでしまえば、どれほど良かったことか。どれほど楽だったことか。
だが、残念ながら、クラシックマニアであり、音楽に真剣に対峙しようと肩肘張る私は、楽しむことが出来ない。
多くの観客が、観終わって「面白かったね~!」と語り合いながら会場を後にしたというのに・・・。


楽しめなかった理由。
まず、純粋に演奏のレベルが低い。
そりゃそうだ。そもそも主催側が、あるいは指揮者の井上が、オペラの本格上演に相応しいレベル、本公演に究極のモーツァルト演奏を求めていないのだから。なんたって、エンタメだからね。

次に、一部の歌手(役柄で、スザン女、フィガ郎などと設定した日本人)の日本語訳詞による歌唱の、どうしようもない違和感。

本公演に限らず、私は日本語訳詞上演が嫌いだ。
なぜなら、日本語に訳して当てはめるその無理矢理感が、何だかクサくて、何だかダサくて、聴いていて気持ち悪くなるから。

オペラは、当たり前だが、作曲家がイタリア語やドイツ語といったオリジナル原語の発音や歌いまわしを想定しながら、セリフに音楽を当てている。
それを日本語に当て直すと、イントネーションは狂うし、無理矢理感が漂うのは、そりゃもう必然の成り行き。
それに、日本語の歌は「一つの音符に一字を当てるのが基本」の構造のため、一つの音符や音型に単語や文節を上手く載せていく欧米のソングと比べ、流暢さ、スムーズさにおいて決定的に劣ってしまうのである。

野田の演出は、上で述べたとおり、エンタメと割り切って見れば確かに面白かったし、幕末の長崎を舞台にしたという着眼点も良い。
だが、「庭師は見た!」と言っておきながら、庭師アントニオは狂言回ししているだけで、全然物語のキーパーソンになっていない。だから「何見たんだよ?」と突っ込みたくなる。
(ケルビーノが二階から落ちてきたのを見た、というだけなら、そんなの演出家がクローズアップするまでもなく、最初から物語に入っている。)


以上、色々と「がっかりなこと」を述べてきたが、こうした公演自体を否定しようとは思わない。会場に駆けつけた人たちは、野田の名前に惹かれた演劇ファンが多かったと思う。そういう人たちが「ああ、オペラって面白いね。また観たいね。」と思ってくれたのなら、それは一つの成功だ。

それに、思った。
今でこそクラシックやオペラは高尚(?)扱いだが、作曲された当時は、もしかしたらエンタメそのものだったのかもしれない、と。(支えていたのは、大衆ではなく上流貴族だったかもしれないが)
つまり、元々オペラなんてこんなもの。何も考えずに「ああ、面白いね」で終わっても、全然オッケーというわけだ。
だいいち、この上演をモーツァルト自身が鑑賞したら、きっと腹を抱えて笑ったことだろう。


要するに、頭を抱え、楽しむことが出来なかった私は、偏屈者だったということで。