クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2021/3/9 読響

 

2021年3月9日   読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮   山田和樹
リスト   レ・プレリュード
R・シュトラウス   死と変容
ニールセン   交響曲第4番 不滅


よく考えられた、見識と選曲のセンスが光るプログラムである。
「レ・プレ」すなわち前奏曲は、とある詩の中にあった「人生は死への前奏曲」という言葉を作曲家が引用し、標題にしたとされている。
で、「死と変容」では死の恐怖を超越した末に訪れる世の浄化が表現され、そしてついに「不滅」に至って魂を永遠に導く。
連鎖であり、示唆になっているわけだ。

しかも、このタイミングである。
東日本大震災の悲劇からちょうど10年。そして、コロナ禍に見舞われたクラシック界。
公演のチラシにあったキャッチコピー「音楽は、不滅だ」は、単なる言葉の引っ掛けではなく、指揮者山田和樹と読響からの一つの「メッセージ」であり、「回答」であったと思う。


名曲でありながら、その割には演奏される機会が意外と乏しい「死と変容」と「不滅」。両曲とも私自身大好きなのに、それぞれたったの4回しか生で聴いたことがない。
そんな中、「死と変容」を前回に聴いたのが2012年1月の「読響」であり、「不滅」を前回に聴いたのが2014年4月の「山田和樹指揮」であった、というのは、何だか繋がっているようで、面白い。
2014年にヤマカズさんが「不滅」を指揮したのは日本フィルだったが、今回、読響と組んでまたこれをやった、というのは、きっとこの作品に対して彼なりの思い入れがあるのだろう。


演奏も実に見事だった。
ヤマカズさんのタクトからは、作品の中に存在する「基柱」が明確に示されていたし、読響も全身全霊の力演で応えた。
この日のプログラムは、オーケストラ奏者にとってかなりヘビー、ハードだったはず。
でも、そのハードな作品をこなす気概というものが、ひしひしと伝わってきた。強奏の部分は、おそらく普段の2割増の音量だったと思う。
分かるよ。燃えるよねー。


会心の演奏で、心の中で思わずガッツポーズを取ったであろうヤマカズ氏。
カーテンコールの最後で、観客の拍手を制し、「読響は永遠に“不滅”です!」とやって、再び大喝采

でもこっちは大ズッコケ(笑)。
なんだいなんだい。せっかく選曲プログラムの妙、そこに込められた「永遠の魂という一連のテーマ性」だとか「音楽は不滅というメッセージ」だとかを絶賛したのに・・・。
そっちかよー!?(笑)

2021/3/4 読響

2021年3月4日   読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮   山田和樹
鈴木康浩(ヴィオラ
ウェーベルン   パッサカリア
別宮貞雄   ヴィオラ協奏曲
グラズノフ   交響曲第5番


日本人覇者がどういうわけか次々と輩出され、我が国でもその名がよく知られているブザンソン国際指揮者コンクール。若手指揮者の登竜門の一つとされている。
だけど、優勝したからといってすぐに国際的なキャリア、世界の一流オーケストラを振ることができるほど甘い世界ではない、指揮者稼業。

そんな中、2009年の優勝後、順調に欧州でのキャリアをスタートさせ、スイス・ロマンド管、バーミンガム市響、モンテカルロ・フィル等でポストを得てきた山田和樹氏。そろそろ若手から中堅へのステップアップ期に差し掛かりながら、今後も更なる国際的活躍が期待される逸材の一人である。

・・・と持ち上げておいて誠にアレなのだが、何を隠そう私自身ヤマカズさんの才能、実力、手腕について、実はそれほど確信を持てていない。これまで、何だかよく分からないもどかしさを感じていた。

「その原因、理由は、たぶん、もしかしたら、あれじゃないか?」と内心思い当たることがあって、彼のタクトや統率ぶりに指揮者としてのオーラが感じられないのだ。風格、貫禄、威厳といったものが欠けているように見えるのである。

で、それは多分に「見た目」による印象である。
指揮者は見た目じゃない。(と言いつつ、見た目は大事だと思うが)
出てくる音をしっかりと聴きたい。
出てくる音を通じて、彼がどんなメッセージを発信しているのかを、探りたい。

今回の読響の3月公演シリーズ(ヤマカズ氏による4公演3プログラム)は、それを確認する絶好のチャンス。
ということで、私は3プロ全部行くことにした。
(単純に、プログラムが3つとも魅力的だったのが一番の理由だが)


まず、この日の定期公演。
シリーズ1回目に当たる本公演で、いきなり分かってしまった。
私には見えたのだ。この指揮者の本分が。タイプ、志向性、持ち味が。
ずっとモヤモヤしていたものが、ここでスッキリと解消された瞬間であった。

なるほどそうか、彼は「ガイド」なのであった。
作品を紐解き、堅い装いをほぐし、「こんなにいい曲なんですよ」と分かりやすく提示してくれる案内人なのであった。
つまり、彼の指揮者としての使命は、作品の魅力を存分に引き出し、それを余すところなく聴衆に届ける、ということなのだ。そんなわけだから、オーラ、風格、貫禄、威厳、必要がないのだ。

なぜこのように気が付いたか。
それは、一曲目のウェーベルンと二曲目の別宮のコンチェルトが、初めて聴いたにも関わらず、あたかも馴染みが深かったかのように非常に心地良く響いたからである。

現代曲に限らず、私にとって「初めて聴く曲」というのは鬼門である。いつもいつも居心地が悪い。
私の音楽的感性は、人見知りが激しい。だからこそ、予習は必須。何度も聴いて、様々な指揮者の演奏を聴いて、音楽を耳に染み込ませ、琴線を張る。
ところが、今回はそれを怠った。このため、前半プロはひたすら辛抱の時間だと思っていた。
それが、上記の感想「あたかも馴染みが深かったかのように非常に心地良く響いた」になったのだ。

もちろん、作品そのものの良さがあったのかもしれない。仮にそうだとしても、私はヤマカズさんのおかげ、指揮者の功績だと思いたい。


これで、残りの2公演もなんだか楽しみになってきた。
プログラムは、どれも私の耳に馴染んでいる名作である。これらの作品は、自分では既に十分に知っているつもり、分かっているつもり。
それでも、もしかしたら、ヤマカズさんが再び名ガイドぶりを発揮して、新たな一面を見せてくれるかもしれない。

そんな期待が膨らんできた。

クラシカ・ジャパン

つい先日、総理大臣の息子が在籍している映像配給会社「東北新社」が、放送事業を管轄している総務省の幹部連中を接待していたことが発覚し、違法な官民癒着ではないかという疑惑が世間を騒がせた。緊急事態宣言の最中、霞が関首相官邸に激震が走り、現政権が一瞬グラリと揺らいだ。
にわかに注目を集めてしまった東北新社だが、なんとこの会社が提供している配給の中に、クラシック音楽系の専門コンテンツ「クラシカ・ジャパン・プラス」が含まれている。

で、今回の騒動とはまったく関係のないところで、このコンテンツが今月末、3月31日をもってひっそりと終了することが発表された。

疑惑問題はとりあえず置いておくとしよう。「クラシカ・ジャパン・プラス」の話だ。

元々、CS放送スカパーの番組「クラシカ・ジャパン」が前身。クラシック音楽専門チャンネルの老舗で、私も受信契約し、長きにわたって視聴していた。
ところが、昨年10月末にテレビ放送を終了させ、インターネットによる有料動画配信サービスに切り替えるという連絡を受け取った。一抹の寂しさを感じながら、令和2年8月、解約手続きを行った。その切り替えからわずか半年で、すべてのサービスに終止符を打ったというわけだ。

開局が1998年というクラシカ・ジャパン。20年以上にわたりクラシック番組を発信し続けたチャンネルが終わってしまった。なんだか時代の一区切りを痛感してしまう。

私がこの番組を長らく視聴してきた目的は、「オペラ」だった。
コンサート系、つまり聴くだけの演奏なら、別に同番組の放送を待たなくても、CDでもいいし、You tubeで検索すればいくらでも見つかって、それらを無料で視聴することも出来る。
これに対し、オペラの場合、「日本語字幕が付いた上演の放映」というのが最大のポイントだった。これは、You tubeにも、一部の輸入物市販映像ソフトにも、完備していない利点だった。
さらに、テレビ放送であれば、録画して円盤ディスクにダビングして保存することが出来るというのも、大きかった。
(映像を大切に保存したいのに、機械の故障やチューナー等の機種変更によっていちいち初期化フォーマットが必要になるHDDは、私は基本的に信用が置けない。)

そもそもテレビ放送からネット動画配信への切り替えは、「危険な兆候」に見えた。
クラシック音楽のコンテンツは、ネットや端末で観るもんじゃない」という問題もさることながら、ネットに移行した瞬間からYou tubeと同じ土俵で勝負する羽目になる。「日本語字幕に対応」などというメリットも、「無料」の勢いにかき消され、やがて一気に押し潰される。有料配信サービスに勝ち目はない。そんなことは自明の理だった。
つまり、舵を切った時点で、もう終焉ははっきり見えていたと言っていい。

今のご時世、CDやDVDなどのソフト販売も、ジリ貧下降が続く。
唯一の頼みの綱である会場でのライブ鑑賞にしても、コロナに強烈なパンチを見舞われた。

いつ、どんな時代になっても、クラシック音楽そのものが廃れることはないと思うが・・・楽しみ方、鑑賞の仕方は、じわじわと変化を余儀なくされている。
そして、その行き着く先はよく分からず、一寸先は闇・・・・。

藤村実穂子

言うまでもなく、世界的なメゾ・ソプラノ歌手。
バイロイト音楽祭に9年連続で出演した輝かしい実績を誇り、ウィーンやミュンヘンといった一流歌劇場から出演オファーを受けるワールドクラスの歌手。彼女を紹介するのに、もはや「日本最高の」だとか「日本を代表する」だとか、いちいち日本人であることを強調させる必要も意味もない。日本という小さな枠に収まらない、収めてはいけない、それくらい群を抜いた存在だ。

と言っておきながら、やはり日本という枠組みでもう少し考えてみたい。
かつてこれほどまでに世界的な地位を築いた日本人歌手がいただろうか。

これまでにも海外で活躍した(あるいは今も活躍している)歌手はいた。バイロイト音楽祭ウィーン国立歌劇場に出演したことがある歌手もいた。ウィーン国立歌劇場バイエルン州立歌劇場の専属歌手として、レパートリー公演を支えた歌手もいた。
だが、世界に冠たる一流歌劇場と継続的にソリスト契約を交わして重要な役を担い、あるいはソロ歌手として世界的なオーケストラと頻繁に共演するような歌手は、日本のクラシック史において誰もいなかったのではないか。
日本人の特権だけで「蝶々夫人」というおいしい役をいただくのとは、わけが違うのである。
そういう輩の中には、箔を付けようとしてプロフィールにわざわざ「ドイツ在住」「イタリア在住」などと書く人が今も昔もたくさんいるが(アホくさ)、藤村さんクラスとなると、そんな箔付けの誇張もまったく不要というわけ。


私が初めて彼女を知った、というか、その名前を見つけたのは、2001年。
バイエルン州立歌劇場の来日公演キャストの中に、その名はあった。
なんと、「フィガロの結婚」のマルツェリーナだった。
ワーグナーではなく、モーツァルトの脇役だったというのが、面白い。いかにも「まだ駆出しの頃でした」みたいな新鮮さである。
案の定、この時の彼女の印象は薄い。マルツェリーナだし・・。
それに日本公演向けに日本人をくっ付けて共演させるというのはよくある話なので、当時、「彼女も所詮はそんなところだろう」なんて思ったのだ。

ところが、彼女は正真正銘の本物だった。翌2002年から破竹の快進撃が始まる。
いきなりバイロイト音楽祭デビュー。
しかも、「ラインの娘たち」でも「ワルキューレたち」でも「ノルン」でもなく、重要な「フリッカ」ときた。
「いきなり」と書いたが、ミュンヘンでの研鑽中にバイロイトでの声楽コンクールに入賞し、既にアンダー(控え)として音楽祭に招かれていた。しっかりと実力は見込まれていたわけだ。

そこから9年連続で出演を果たしたことは、上に書いたとおり。
最後の9回目となる2010年リング(C・ティーレマン指揮)は、私の記念すべきバイロイト初参戦と重なった。彼女の勇姿(フリッカ)を目の当たりにすることが出来たのは幸いだった。

私が海外で彼女の出演オペラを観たのは、このバイロイトの他にあと2回。
2006年11月バイエルン州立歌劇場「ラインの黄金」のフリッカ(P・シュナイダー指揮)、2008年12月ウィーン国立歌劇場「神々の黄昏」のワルトラウテ(F・W・メスト指揮)。
特にウィーン国立歌劇場の「黄昏」は、メストが音楽監督として新演出に臨んだ重要なチクルス公演であり、「この舞台に日本人が立っているって、マジすげえよな」と感嘆したことを覚えている。


活躍の舞台が世界になっているにも関わらず、事あるごとに日本に戻って歌ってくれているのは、日本のファンにとって嬉しいことだ。
2011年4月の東日本大震災後のメータ指揮N響「第9」公演では、無報酬で駆けつけてくれたと聞く。新国立劇場にもたびたび出演。

ここ最近は、特に大野和士との共演回数が積み重なっている。
昨年は東京・春・音楽祭の「グレの歌」で共演したし、先日の「アルト・ラプソディ」、来月の「ワルキューレ」。4月以降も都響と「大地の歌」、ツェムリンスキー「フィレンツェの悲劇」などが予定されており、どうやら強固な絆が結ばれたようだ。

私なんかは「まだまだ、もっと世界の舞台で活躍してほしい」などと思ってしまうが、彼女の中では、祖国の日本は今もこれからも特別な場所であり続けるということなのだろう。

残念ながら新国立のワルキューレは私はパスすることにしてしまったが、彼女が出演する公演はこれからもできるだけ足を運びたいと思う。
不世出の歌手ですから。

2021/2/22 都響

2021年2月22日   東京都交響楽団   東京文化会館
指揮   大野和士
合唱   新国立劇場合唱団
中村恵理(ソプラノ)、藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)
武満徹   夢の時
ブラームス   アルト・ラプソディ
マーラー   交響曲第4番


元々マーラー交響曲第2番の公演だったが、コロナのリスク回避でプログラムが変更になった。
それでも、せっかく契約した世界的な日本人歌手をみすみす手放すことはないということで、二人の出演を活かせる曲にチェンジしたわけだが、「吉」になっていたと思う。最初からこのプログラムだったとしても、私は喜んでチケットを買っただろう。

特に、ブラームスの秘蔵の名曲、アルト・ラプソディが聴けたのは嬉しい。
しかも、名歌手である藤村さんのソロで。

この曲、渋いし短いし、なおかつソリスト男声合唱を揃えなければならないため、残念ながらなかなか演奏されない。私自身、実演ではこれまでにたったの2回しか聴いたことがない。そのうちの1回は海外で聴いたものだから、要するに国内で演奏されるのは稀少ということだ。
残念としか言いようがないが、今回、代替プログラムとしてこの曲をすかさず据えた大野さん(あるいは事務局のお手柄?)の機転と計らいはナイスだ。
(ちなみにであるが、私は大学生の時、オケでこの曲を演奏した経験がある。)

期待どおり、藤村さんのしっとりと染み渡るような歌唱が秀逸。あたかも最初から「藤村さんとなら、ぜひこの曲を」と用意して作り上げたかのような、万全の仕上がり。
彼女が声を発した瞬間、会場の空気が一変した。そこにドイツから郷愁を誘う風が吹き込む。私は目を閉じて、その冬枯れた風の感触を確かめる。わずか10分くらいの瞑想。静かな、美しい時間だった。


メインのマラ4は、今度は指揮者大野さんの手腕が遺憾なく発揮された好演。冬のドイツの厚い雲に覆われた景色はここで様変わりし、眩しい日差しによって視界良好、鮮やかで明晰なマーラーが展開した。

大野さんはやっぱり天才型というより秀才型、頭脳派なんだろうな、と思ってしまった。
スコアをじっくり読み込み、解析して、作品を整理し、秩序を作る。理路整然と。そうしたことに長けている指揮者だと改めて感じた。

作品によって、指揮者の解析能力が重要となる曲、あるいはインスピレーションや感性が重要となる曲、分かれると思う。少なくともこのマラ4に関しては、完全に大野さんに利した作品であった。
代替の曲を探さなければならなかった時、もしかしたらすぐにこの曲が候補に浮かんだのではなかろうか。そんな気がする。彼は2016年11月にも都響と演奏していて、好感触が残っていたはずだ。

災い転じて福となす。
「復活」を楽しみにしていたお客さんからすれば、非常に残念なことではあったが・・。

2021/2/20 二期会 タンホイザー

2021年2月20日   二期会   東京文化会館
ワーグナー   タンホイザー
指揮   セバスティアン・ヴァイグレ
演出   キース・ウォーナー
管弦楽   読売日本交響楽団
狩野賢一(ヘルマン)、片寄純也(タンホイザー)、大沼徹(ヴォルフラム)、田崎尚美(エリーザベト)、板波利加(ヴェーヌス)    他


以前にもコメントしたことがあるが、二期会公演の感想記事を書く時、毎度「何だか申し訳ないな」と思ってしまうことがある。
それは、歌手団体の公演なのに、真っ先に書いてしまうのは、演出のことだったり、指揮者がリードする音楽全体の仕上がりだったり、オーケストラのことだったりで、歌手に関することがほとんど後回しになってしまう、ということだ。
で、その歌手について、散々後回しにした挙げ句、「いつもの二期会レベル」、「日本という枠の範囲内で、まあ良かった」みたいにけんもほろろ、つれなく言い放ってしまうわけである。

当事者の方々が目にしたら、がっかりしてしまうだろう。
でも、絶賛したくなるような歌唱になかなか巡り合うことがない、というのは、正直、偽らざる感想。だから、仕方がないのだ。
逆に言えば、そのような歌唱を目の当たりにしたら、ストレートに絶賛コメントを書く用意がある。そういう歌手の出現を、私はいつも期待している。

一つ言っておくと、海外の劇場と提携して世界的に名高い演出家のプロダクションを制作し、指揮者も海外から積極的に招く意欲的な姿勢は、実に立派だし、プロフェッショナルだと思う。もう一つの某オペラ団体の、まるで同好会みたいに保守的かつ安直で、もはや呆れて物が言えない活動方針に比べれば、数段マシ。
だから、二期会にはもっともっと頑張ってほしいと心底思っている。


ということで、今回も最初に書くことは、指揮者とオーケストラについてだ。
ピットの中から本格的なワーグナーが聴こえてきて、まず仰天。そして感服。思わず唸った。
これぞ読響の実力、これぞフランクフルト歌劇場カペルマイスターの実力。

特に、ヴァイグレのタクトの求心力、推進力が特筆すべきことだった。
日本でこれまでに披露したオペラ公演だけでなく、私はフランクフルトでも彼が振った公演を何度も観ているが、卓越した統率力の発揮という点で、ほぼベストと思えた。
世界中の歌劇場がコロナの影響を受け、公演の開催が困難となっている中、日本でこうしてオペラを上演する機会を与えられたことを、彼は心の底から意気に感じ、いつも以上に気合いを入れたのではないだろうか。

加えて、読響が上手い。
比較しちゃいけないんだろうけどさ、普段新国立のピットに入っている某オケの演奏とは、出てくる音が違っていたわけである。

ふと思う。
もしヴァイグレが、新国立のピットに入っている某オケを振ったら、今回のような音が出てくるのだろうか?
有能な指揮者は、オーケストラから実力以上の物を引き出すことが出来るとのことだが、果たして・・・。


次に演出について。
演出家は新国立で「トーキョーリング」を手掛けた鬼才K・ウォーナー。フランス国立ラン歌劇場(ストラスブール)との提携プロダクション。
実際にはウォーナーは直接的な演出指導に関わらず、ラン歌劇場の制作責任者がリモートで仕上げていったとのことである。二期会はあくまでも提携先の劇場と契約したわけだから、ある意味当然とも言える。

K・ウォーナー、「トーキョーリング」があまりにも革新的で衝撃的だったので、奇抜な手法を採用するタイプのイメージがあるが、彼が演出した他の作品や舞台を見ると、結構堅実な物が多い。今回も、大幅な読み替えは避け、全体的にオリジナルの枠に収めつつ、細部には様々な仕掛けを施していて、彼なりの独自性を打ち出ている。

もっとも、そうした仕掛けが、作品の見方を大きく変えるほどの新たな視点の創出にまで至っているかといえば、そうでもない。

例えば、ヴェーヌスと一緒に登場する「子供」。「タンホイザーとの間の子」という設定と思われるが、成長後の将来に何かを暗示させるかというと、何もない。
絵画の中から飛び出したヴェーヌスベルク、ステージのある講堂という空間、巻いた針金で出来た籠のオブジェ・・・どれも思わせぶりでありながら、決定的な比喩や象徴になり得ていない。

ただし、「思わせぶりに提示だけして、あとは観客の自由な想像力に任せる」というやり方も、実はまた欧州でよく採用される手法である。「あれはいったい何なのか?」と演出家に尋ねれば、「ところで、あなたは何に見えたか?」聞き返される。
そういう意味で、ウォーナーは、自分の役目をまっとうしたということなのかもしれない。


歌手について。
好印象の方と、そうでない方と、半々に分かれた。
好印象を受けたのは、エリーザベト役の田崎さん、それからヴォルフラム役の大沼さん。
田崎さんは存在感があったし、歌唱の中に込められているものがしっかりと聴こえてきた。また、ドイツ語で歌っていることを忘れさせる表現力があった。(あとの人たちは、「外国語で歌ってるなあ」という印象を拭えなかった。)
大沼さんは、エリーザベトへの純愛を貫く姿勢が演技にも歌にもよく出ていた。演出にマッチした歌唱だった。

タンホイザーの片寄さんは、申し訳ないけど、ワーグナーの主役として磨きが足りない。フローとかエリックとかメロートとかなら十分だと思うけど。根本的に、ヘルデンテノールの人材不足が問題ということか。
ヴェーヌスの板波さんは、私の感性との相性が良くない。1月公演の「デリラ」も「だめだこりゃ」と思ってしまった。もはや残念としか言いようがない。

最後に、カーテンコールで、合唱指揮者として新国立劇場の三澤洋史さんが出てきて、ひっくり返った。なんじゃそりゃ。そういうのあり?
まあ、ありって言えばありかもしれないが・・・それでいいのか二期会さんよ。

2021/2/19 バッハ・コレギウム・ジャパン

2021年2月19日   バッハ・コレギウム・ジャパン   サントリーホール
指揮   鈴木雅明
櫻田亮テノール)、加耒徹(バス)   他
バッハ   ヨハネ受難曲


本当はこの日、ユリアンナ・アヴデーエワのピアノリサイタル公演チケットを買っていた。
ところが、外国人入国制限措置により来日不能となり、公演中止。
かろうじて制限措置前に入国できたアーチストたちも、公演を終えると順次帰国の途に着き、こうして国内組オンリーによる公演がまたしばらく続くこととになる。
寂しい限りだが、劇場やコンサート会場がロックダウンで封鎖されてしまっている欧米に比べれば、まだマシな方なのかもしれない。

私自身は、たとえ国内組オンリーの公演であっても、「これは聴きたい!」という魅力的なプログラムをやってくれる演奏会なら、全然ウェルカム。喜んで会場に足を運ぶ。

本公演も、そうした公演の一つだ。
元々、アヴデーエワのリサイタルと日にちがバッティングした時、どっちに行こうか迷ったのだった。だから、アヴデーエワ公演の中止を知った瞬間、私は本公演のチケットを速攻で購入した。


さて、クラシックの作品群の中で金字塔的存在となっている「マタイ受難曲」に比べると、知名度や人気度は劣るかもしれないが、この「ヨハネ」も間違いなく傑作だ。
両者の比較は難しいが、マタイではソリストによる登場人物の告白の歌唱が多いのに対し、ヨハネでは合唱がより大きな比重を占めていて、これによるドラマチック効果を感じることが出来る。

BCJのオーケストラは室内アンサンブルのような小編成だし、合唱の人数も少ない。
にも関わらず、こじんまりとした印象に陥らず、上記のドラマチック効果をはっきりと感じることが出来るのは、指揮者の鈴木さんが、物語や歌詞の意図を汲み取り、発声や旋律、アンサンブルの響きなどに明確な方向性を指し示して、積極的に起伏を作り上げているからだろう。

こうして、単にスコアのとおりに演奏しただけでは表出されないような陰影が浮かび上がり、聴き手は、そこに対訳がなくても、受難の物語を肌で感じ取り、追体験することが出来るのだ。


それにしても、バッハ・コレギウム・ジャパンの近年の躍進は、目覚ましい。もしかしたら、コロナの影響を受けて厳しい環境に置かれている国内クラシック界の救世主的存在と言えるかもしれない。
と同時に、こうした状況だからこそ、今、バッハの敬虔な祈りのような音楽が、私たちの心に響き、深く染み入ってくる、とも言えそうだ。