クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

皇帝ティートの慈悲

「本当なら、今頃はヴィースバーデンで『黄昏』だよなー」
なんて呟いても仕方がないので(やっぱり未練たらたら?)、気持ちを切り替えるため、ザルツで鑑賞予定の「皇帝ティートの慈悲」を自部屋で観た。連休をホームシアターで優雅に過ごし、未練を断って先の楽しみに思いを馳せる。
 
2005年6月にチューリッヒ歌劇場で収録されたもの。指揮F・W・メスト、演出J・ミラー。
出演者はとても豪華で、ティート=J・カウフマン、ヴィッテリア=E・メイ、セスト=V・カサロヴァ、セルヴィリア=M・ハルテリウス、など。
 
このプロダクションでは、全編にわたってレチタティーヴォの部分をセリフに置き換えているのが特徴。
レチタティーヴォモーツァルトではなく弟子(ジュスマイヤー?)が作曲したから、というのが理由のようであるが、なにもそんなに厳密にしなくてもいいような気がしなくもない。
 
セリフにするということは、「イタリア語で話す」ということである。
出演者は一人を除いて全員、非イタリア人だ。みんな上手にイタリア語を操り、さすがは国際的な歌手たちだが、唯一人のイタリア人であるエヴァ・メイの本物の発音、際立った言い回しには、当たり前だがかなわない。
音楽を排除してセリフにするというのなら、いっそのこと全部ドイツ語にしちゃえばいいじゃん、とか思ってしまう。
メイはドイツ語も完璧に話すバイリンガルだし、なんといっても聴衆のほとんどはドイツ語圏なんだから。お客さんの理解のためにはそっちの方がいいのではないか?
(日本では、魔笛なんかそうやって上演されることが多いよね。)
 
さて、セリフの問題はさておき、このプロダクションの収録はとても貴重だ。
なにが貴重かというと、世界に君臨するスーパーテノールヨナス・カウフマンの12年前の若き肖像がここに収まっているのである。
 
カウフマンは、デビューからいきなりスターだったわけではない。最初はモーツァルトなど軽い役が多かった。キャリアを積み上げ、ステップアップしながら、徐々に重い役をこなせるようになったのである。
ここでのカウフマンは、モーツァルトを歌いつつも、声には力強さや芯の強さが秘められていて、十分に飛躍の可能性を感じさせている。まさに進化の真っ最中であり、本公演はその過程の様子を見事に捉えている。
 
12年前の世界のテノール事情は一体どうだっただろうかと、思い返してみる。
 
この時もう既にF・D・フローレスは世界に君臨していたが、まだロッシーニの域にいた。
アラーニャ、クーラ、M・アルヴァレスらがポスト三大テノールと囁かれ、また、ロランド・ヴィリャゾンが彗星のごとく登場してきた。多分そんな時代だっただろう。
 
一方、ワーグナーなどのドイツ系テノールはというと、長く続いたコロの時代はもう終わり、P・ザイフェルト、R・ギャンビル、R・D・スミス、C・フランツあたりが過渡期をなんとか支えていた。K・F・フォークトは既にデビューしているが、その名はまだ世界に轟いていない。
 
そう考えると、カウフマンは待望のテノールだったことが分かる。当時の本人の意思はどうだったか分からないが、時代は彼を必要とした。そして、彼はその要請に応えたというわけだ。
ヘルデンテノールだけに留まらず、ヴェリズモ、フランス物など様々な役にもチャレンジする寵児カウフマンの原点がモーツァルトであったというのは、なかなか素敵だ。