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代表監督の条件とは

 サッカー日本代表監督だったアギーレ氏が解任されて以来、連日のように報道で次期候補者の名前が取り沙汰されている。同時に、日本代表監督としてどういう人物が相応しいのか、監督として兼ね備えるべき条件、といった議論が多方面から噴出している。
 今回に限らず、代表監督を選ぶ際に必ずと言っていいほど挙げられるのが、「日本サッカーに理解がある人」、「日本人の特性をよく知っていて、これを活かすことが出来る人」といった条件だ。
 
 外野のファンが「誰がいい」「誰がイチ押し」などと好みの個人名を勝手に挙げながら想像を膨らませるのは悪いことじゃない。むしろ楽しい。所詮は高みの見物だから。
 
 だが、協会幹部やOB、サッカー関係者、評論家などといった識者たちが「日本や日本人を知っている人、理解してくれる人が必要」と、あたかもそれが真理であるかのように唱えるのを聞くと、私は途端に心配になってくる。なぜなら、どうしてそれが望ましいのか、私にはさっぱり理解できないからだ。
 
代表監督を選ぶ際の基準は、私はたった一つしかないと思っている。
 
「世界で勝つための豊富な経験と知識を有している人」
 
これだけだ。これこそが唯一にして絶対の条件であるべきだ。
日本人とか外国人とかまったく関係ないし、極論を言ってしまえば、別に日本の事を理解してくれなくても全然構わない。日本に合った戦術を敷くのではなく、世界で勝てる戦術を日本に施してほしい。私はそう思う。
 
 そもそも有能な監督は、一定の時間を与えれば、日本の特性を瞬時に把握してしまうだろう。頼まなくても、勝つために「日本人」という持ち駒をどのように動かせば有効なのかを自ずと研究し、結論を導き出すだろう。結果的に、日本の良さを最大限に活かしたシステムが構築される。
 それこそが有能な監督なのだ。日本のことを知らなくたって、世界で勝つための経験と知識を持っている人は、それが出来るのだ。
 
サッカーの最先端はどこにある? 日本にあるのか?
日本の世界ランクはいったい何位だ?
上を目指さなければならないのに、どうして「いったん降りてきてくれる監督」を探さなければならないのか?
降りてきてなんかほしくない。高い所から引っ張り上げてほしい。
日本を理解してもらう必要はない。日本こそが世界の最先端を理解する必要がある。
つまり、我々日本人が、自らの殻を破り、既成概念を壊し、変わらなければダメなのだ。
 
 かつて、ジーコが「日本のサッカーに理解があるから」という理由で選ばれた時は、心底がっかりした。一方で、世界基準を前提にして、ザッケローニを世界マーケットの中から探して連れて来た時は「よくやった!」と思った。
 今回もその流れで行って欲しいし、当然そうなるものと信じている。