指揮 準・メルクル
演出 ダミアーノ・ミキエレット
伝統的な演出が幅を利かせるイタリアから大胆に物語を現代に置き換える演出家が現れたと思ったら、あっという間に世界を席巻してしまったミキエレット。今や押しも押されもせぬ引っ張りだこの演出家だ。この夏もザルツブルク音楽祭でチェネレントラの演出に携わっていた。三年連続の同音楽祭登場である。いかにも多忙の売れっ子演出家らしく、今回の公演のための東京滞在はほんの数日のみで、振付のほとんどは演出助手によるものだったらしい。
しかしながら、ミキエレットのコンセプト、この演出に込めた主張は十分すぎるほどに伝わってきた。出演者たちがこのコンセプトに真正面から取り組み、どう表現したら良いかを真剣に考え、懸命に演じた成果がばっちり出ていた。その点については大いに評価しようと思う。
舞台にはたくさんのメッセージが散りばめられていた。見えたもの全てに意味があったと思う。それらはどれも非常に理解し易いものだった。
一つ一つ「これは何」と解き明かしていく必要もないので省略するが、一貫していたのはやはり「愛」ということになるのだろう。イドメネオとイダマンテの親子の愛、それからイダマンテとイリアの愛。試練にぶつかりながらもこれを乗り越え、最後に愛の結晶が生まれる。ネプチューンの神託を出産という生命の神秘に見立てた演出家の目の付け所はさすがとしか言いようがない。
だが、個人的に強いインパクトを受けたのは、むしろ愛の物語の裏側に潜んでいた痛々しい傷跡の方だ。それは戦禍の悲惨さであり、恐怖であり、取り残された人々の苦しみである。
今なお世界のどこかで紛争が起き、犠牲となる人がいて、悲しみと憎しみに苛まれる人がいる。そうした現実の世界で生活している我々は、ただ「愛の勝利」だと素直に喜ぶことが出来ない。仮にそれを単純に受け入れてしまったら、ハリウッド映画の安っぽいハッピーエンドを見るのと同じになってしまう。
演出家の意図ではなかっただろうが、敷き詰められた砂は、あたかも津波や土砂災害ですべてを流し尽くしてしまった生々しい現場にも見えて暗鬱となった。
それでもミキエレットの演出で感心するのは、変に哲学的になったりせずに、今まさに生きている現代の物語にストレートに置き換える手法だ。現代の我々が見つめ直すべき事柄を露わにする。これこそが劇場の務めであり意義なのだということを、この演出家は教えてくれている。
歌手の中では、タイトルロールを歌った又吉さんが、役を完全に手中に収めていて素晴らしかった。将来の飛躍を予感させる大型テノールである。同様にイダマンテ役の小林さんも役の心情を見事に表現していてとても良かった。
他の方々もよく頑張っていて熱演だったのだが、一点だけ注文させていただきたい。
できれば感想として「よく頑張っていた」と言わせてほしくない。頑張りが前面に出てほしくない。
世界のあちこちの歌劇場で(一流劇場だけでなくローカル劇場も)オペラを見て回っているが、他の劇場に比べてそうした頑張りの部分がやけに目立ってしまうのが二期会の特徴であり弱点だ。発表会ではないのだから、プロの舞台人として演技も歌唱も堂に入ったところを存分に見せつけてほしいと思う。