2023年12月16日 NHK交響楽団 A定期演奏会 第2000回 NHKホール
指揮 ファビオ・ルイージ
合唱 新国立劇場合唱団、NHK東京児童合唱団
ジャックリン・ワーグナー(ソプラノ)、ヴァレンティーナ・フォルカシュ(ソプラノ)、三宅理恵(ソプラノ)、オレシア・ペトロヴァ(メゾ・ソプラノ)、カトリオーナ・モリソン(メゾ・ソプラノ)、ミヒャエル・シャーデ(テノール)、ルーク・ストリフ(バリトン)、ダーヴィッド・シュテフェンス(バス)
マーラー 交響曲第8番 千人の交響曲
N響の皆さん、2000回の定期公演、おめでとう。
記念公演らしく、さすがに指揮者、オーケストラの奏者たちの意気込みが普段とは違っていた。その熱量と迫力は、しかと客席に伝わっていた。
ただし、記念碑に相応しい圧倒的な名演奏だったかと言うと、それはちょっと分からない。一概に断定出来ない。もしかしたらそうだったかもしれないし、そう思った人も多かったかもしれない。実際、演奏後は多くのブラヴォー(醜いフライングを含む)、大きな拍手に包まれていた。
だが、その喝采には、記念公演の特別感による高揚とご祝儀が紛れもなく含まれているし、作品の巨大さに圧倒されている部分だってある。私自身も少なからず感動したが、冷静に振り返れば、その感動はきっと曲の偉大さから来ているのだろうなと思う。
なので、ここでは、心が揺さぶられた一面は置いておき、指揮者とプレーヤーが本公演でやり遂げようとした取組みと成果について、自分なりに受け取ったことを振り返ってみたい。
まず、スコアの再現性について、非常に正確かつ精密であった。
これは、マーラーを演奏する際において、非常に大事なことである。何よりも、そのことを作曲家自身が一番望んでいるからだ。
マーラーを演奏した人、あるいは楽譜を見たことがある人なら分かることだが、強弱記号や装飾符だけでなく、作曲家による演奏上の注文指示句がふんだんに書き込まれている。マーラーは、変なこと、余計なことをせず、ただひたすら自分の意図どおりに演奏してほしいと考える、面倒くさいくらい神経質な作曲家だ。
N響プレーヤーも指揮者ファビオ・ルイージも、まずそのことを念頭に置き、忠実に実行している。
特にルイージは、作品のスケールの大きさ、宇宙的な広がりをことさらに強調するのではなく、緻密なアンサンブルを構築させ、バランスを整え、あえて等身大に戻していく入念な作業がはっきりと伺えた。
その一方で、フィナーレやピークに突進していく勢いをタクトで示し、しっかりと風を吹かせ、聴かせどころを作っていたのは、さすがの一言。
次に、第一部と第二部で異なったアプローチの展開。
あくまでも個人的な推測だが、ルイージは、異なるテキストの言語と出典に着目したと思う。マーラーの管弦楽法というより、採用したテキストの意味と内容から出発し、そこから音楽を生み出すユニークな手法だ。
それでは、性格の違う2つの作品という扱いにしたまま、それを並べただけなのかと言えば、さにあらず。
両曲の根底に存在する「神への賛歌」、「救済と祝福」のモチーフを維持し、連続性を保って、あたかもオペラのようなドラマ性を浮き彫りにしながら、フィナーレに繋げていく。そこらへんは、オペラに造形が深いルイージらしい真骨頂と言えるだろう。
合唱について、上に書いたとおり、巨大性を求めるのでなく、緻密なアンサンブルの構築という意味で、しっかりと指揮者の要請に応えていたと思う。もし、圧倒的なカタルシスが欲しいのなら、キャパがデカく、かつドライなNHKホールを容量的に満たすには、人数的に不十分だったはず。
だが、方向性がそこではないことで、声をマックスオーバーにすることなく、音楽として整然と収め、管弦楽と融合した響きを織りなしていた。
また、ソリスト歌手について、残念ながら不調だったお一人様を除き、充実の陣容だった。
日本人として唯一参加した三宅さんの天上からの歌声、心に滲みた。
最後に、繰り返しになるけど、もう一度言っておこう。
N響の皆さん、2000回の定期公演、おめでとう。
これからも積み上げていってくださいね。さすがにあっしは3000回は無理だけど、未来へ向けた道のりを、これからもできる限り見届けさせていただきます。