クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2021/6/3、6/4 バレンボイム ピアノリサイタル

2021年6月3日、4日   ダニエル・バレンボイム ピアノリサイタル   サントリーホール
ベートーヴェン   ピアノ・ソナタ第30番、第31番、第32番


演奏のことの前に、思わず感慨深く見つめてしまったシーンについて。

まず、満員の聴衆で埋まったサントリーホールの客席の壮観さ。
そうだ。こうだったのだ。これが以前はあったのだ。
かつて、やれウィーン・フィルだ、やれベルリン・フィルだ、ポリーニアルゲリッチだ、などといって一流を追い求め、勇んで会場に駆けつけると、そこに必ずあった熱気。
かつてあったが今失っているその熱気を、この日見つけることが出来た。なんだかとても嬉しかった。

次に、バレンボイムのステージマナー。
登場した時も、演奏を終えた後も、熱い拍手を全身で受け止め、360度の客席の各ブロック方面に歩み寄り、足を止め、丁寧に答礼する。ゆっくりと時間をかけ、お客さん一人ひとりの顔を確かめながら、時に手を振り、心を込めて挨拶している。

こんな人だったっけ? バレンボイム(笑)。

きっと彼は理解しているのだ。聴衆というのは単なる集合体ではない、一人ひとりが「音楽を愛する心」を持ったお客さんである、ということを。
だからこそ、答礼しながら、そうしたお客さん一人ひとりにメッセージを送っている。

「こういう時節だからこそ、音楽は大切なのです。音楽の素晴らしさを一緒に共有しようではありませんか!? そして芸術を守っていこうではありませんか!」

私はしかとそのメッセージを受け取った。なんだかジーンとなった。


演奏も、感動的だった。
深い。宇宙のような深遠さ。
これぞ熟成の極み。78歳のバレンボイムは明鏡止水の境地に達していた。

演奏そのものは既に完成されていて、揺るぎがない。さすがこれまでにソナタ全曲を5回も録音しているだけはある。

ここまで到達した今、もはや新たに何かを仕掛けるかのような試行は必要がない。それゆえに、淡々と作品と対話しているだけのように見える。
対話しているというよりは、「作品を見つめている」とでも言おうか。
ほんの少し距離を置きながら。
まるで、作品が、音楽が、自ら語り始めるのを促しているかのような佇まい。

それでもあえて、彼がやっていることを言葉に表すとすれば、それはイマジネーションの喚起なのかもしれない。


「演奏そのものは完成されていて」「明鏡止水の境地」などと上に書いたが、実をいうと技術的な面で、第32番の演奏で前日(3日)、何箇所か危なっかしい部分が散見された。
ところが、翌日(4日)はそれが改善されていた。

ということは、前日、天才バレンボイムもまさかのプログラム間違いで、思わず演奏に動揺が混じった、ということなのだろうか。
だとしたら、「天才もまた人間なり」。

ミスをやらかした彼は、最後に聴衆に向けてこう語りかけた。
「今回出来なかったプログラムは、必ずや次回に!」

その言葉、信じて待ってますよ、バレンボイムさん。

バレンボイムが間違えた

バレンボイム、待望のピアノリサイタル。なんと、事件が起きた。
6月3日のサントリーホール公演。この日に予定していたプログラムは、ベートーヴェンの初期のソナタ、第1番から第4番であった。

そのプログラムが、何の告知もなく、いきなり変更になったのだ。

演奏されたのは、後期のソナタ、第30番から第32番。
これは、前日の6月2日の追加公演、それから6月4日、つまり本日の公演で予定していたプログラムである。
結局、東京での3公演は、すべて同一プログラムになってしまったわけである。

なぜこういうことが起こってしまったのだろうか・・。
バレンボイムは、すべての演奏を終えた後、マイクを持って登場し、陳謝と釈明を述べた。
その説明からすると、バレンボイム自身の単純な勘違いだったかのように思える。「インターミッションの時に、誤りに気が付いた」と述べ、しきりに「申し訳ない」と詫びていた。
一方で、SNS上では「主催側と演奏者のミスコミュニケーションではないか」みたいな意見、指摘も出ていたが、主催者からしてみたら「まさか、そんなことが起きるわけない」と大船に乗っていて、そこに想定外の事が起きてしまい、慌てふためいたものの時既に遅し、みたいな感じだったのではないか。やっぱりバレンボイムの単純ミスなのだろうと思う。

「インターミッションの時に気が付いた」というのなら、せめて後半は、当初の予定どおりのプログラムに戻す措置を取ってもいいはずなのに、後半も結局32番の演奏を決行。
バレンボイムからしたら、30番、31番と演奏して、そこに続けて3番、4番を演奏するのは、構成的にどうしても無理がある、との判断を下したのだと思う。


お客さんの反応はどうだったか。
ブーイングは出なかった。(そもそも飛沫対策のため、「ブー」の声を上げること自体が出来ないが)
一部がっかりした人もいたと思うが、会場の雰囲気は概ね好意的だった。
むしろ歓迎する雰囲気があった。

本当は後期ソナタの方に行きたかったが、チケットが買えなかった等の事情でやむを得ず初期ソナタの方を買ったところ、思わぬ形で後期ソナタを聴けることになり「ラッキー!」と喜んだ人が多かったのかもしれない。

それでも、「初期ソナタの方を聴きたかった」という人だって、少なからずいたはず。
これらの曲が演奏される頻度は、決して多くないのだから。

更に、複雑な胸中になった人たちがいる。
両方の公演のチケットを買った人たちである。
そして、私もその一人・・・。

「だったら、金返せよ!」と立腹するお客さんもいるかもしれないよな。
そりゃそうだよな。

私はどうか。

いつもなら、立腹してしまうかもしれない。「金返せ!」と心の中で叫ぶかもしれない。
でも、そうはならなかった。淡々と受け入れてしまったのだ。

なぜか。
正直に告白しよう。これはクラヲタとして非常にお恥ずかしい話なのだが。

私は、バレンボイムが違う曲を演奏した時、「ん?」「あれ?」という違和感は持ったものの、「おい、曲が違うじゃん!!」と真っ先に気が付かなかったのだ。

「あれ、第1番、第2番って、この曲だったっけ?? うーん・・・ま、いっか・・」

日ごろから偉そうにクラ通を装っているが、所詮この程度。
例えばモーツァルト交響曲やピアノ協奏曲だって、耳馴染んではいても、はっきり「第◯番!」と言い当てられない。第36番「リンツ」と第38番「プラハ」の区別は曖昧。要するに、そういうことだった。

そして、途中から「あ、これやっぱり違う。曲が違う。」と気が付いた時、次に脳裏によぎったのは、「この変更、既にインフォされていた既定路線だった?」ということ、それから「あるいはもしかして間違ってチケット買っちゃった?」ということ。
自分自身を疑ってしまったのだ。

確信が持てなかったので、休憩中に知り合いのKさんとお会いしても、そこらへんについて話題にすることが出来なかった。悲しいですな。

淡々と受け入れてしまった理由、その2。
バレンボイムが演奏するベートーヴェンの後期ソナタなら、例え同じプログラム公演を2回聴いても、十分にその価値があると思えるから。

大きな制約によって外来コンサートが出来ない中、奇跡的に実現した巨匠のリサイタル。
この機会は貴重なのだ。


ということで、今日もまた夜、行ってくる。
具体的な演奏の感想は、また後日ということで。

行ってみたら、またまたバレンボイムのうっかりミスで初期ソナタを弾いてしまい・・・なんてことは・・・あるわけないか(笑)。

2021/6/1 都響

2021年6月1日   東京都交響楽団   サントリーホール
指揮   小泉和裕
合唱   新国立劇場合唱団
中村恵理(ソプラノ)、加耒徹(バリトン
オネゲル   交響曲第3番 典礼
フォーレ   レクイエム


ちょっと時間がないので、簡潔に。備忘録みたいに。


秘蔵の名作、オネゲルを聴けた幸せ。
指揮者小泉さんが描き分ける動中の静、静中の動。見事。

天上の音楽、フォーレクを聴けた幸せ。
派手じゃない、奇をてらわない。
ストレートでピュアで、それがただただ美しい。
合唱とソリストの静謐な祈りの歌唱。見事。

バレンボイム来日

バレンボイム、どうやら無事に来日したらしい。
招聘した会社が5月28日に公式ツイッターで、はっきり「誰が」と明確にしていないものの、『ホテルに着きました!!』という投稿を出した。

なんではっきり「バレンボイムが」って言わないの??

・・などということは、とりあえずさておき。

リサイタル初日である6月2日まで一週間を切っている。
つまり、通常要請される2週間の隔離待機が免除されたということだ。

いいの??

もちろん、入国後の厳格な行動コントロールを含めてビザ申請し、文化庁総務省などの関係当局がこれを正式に認めたのだから、いいわけである。
ムーティもそうだったよな。

要するに、ムーティバレンボイムは特別、特例。
別格扱いをしたわけだ。

まあな、確かに別格なんだけどさ・・・。
それくらい偉大なる芸術家であることくらい、百も承知。
すごいよなあ・・・。

それでも、「いいのかよ?」というモヤモヤ感は残る。
インバル、ラザレフ、フェドセーエフといった巨匠たちだって、きちんと2週間隔離を受け入れているのだ。
それに、彼らがもしかしたらウィルスを持ち込んでいるかもしれないという危険性は、「偉大なる芸術家」という話とはまっっったく関係ない別問題なのである。

まあとにかく、ムーティバレンボイムは、各国首脳級、あるいはIOCの某会長や役員などの扱いに準じられた。

日本が世界に向けて発信、アピールしている「高松宮記念世界文化賞」の受賞者だからだろうか? ちゃんと敬意を払ってますよ、みたいな(笑)。

2021/5/27 東響

2021年5月27日   東京交響楽団   ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮   ジョナサン・ノット
児玉麻里(ピアノ)、グレブ・ニキティン(ヴァイオリン)
ベルク   室内協奏曲-ピアノとヴァイオリンと13管楽器のための
マーラー   交響曲第1番


音楽監督ノットが振る東響公演を前回聴いたのは2019年11月。わずか1年半くらいしか経っていないのに、何だか久しぶりの感がした。
それはやはり、コロナのせいで来日できずに幾つかの公演が中止に追い込まれ、お預けを食らったからだろう。
それに、東響とノットは切っても切れないくらいの良好な関係を築いており、そのコンビの演奏がやむを得ない事情によって聴けないというもどかしさもあったと思う。

それにしても、ノットだけでなく、読響のヴァイグレ、都響のインバル、日本フィルのラザレフ、東京フィルのバッティストーニ・・・彼らはこのような困難な最中、更に二週間の隔離待機という辛い条件さえも受け入れて、全力で日本に来てくれようとする。
それは、単なる契約というものを越えて、待ってくれている楽団、ファン、関係者の期待に応えたいという一心であろうし、更には「何としても日本に行きたい」、ある意味「日本に戻りたい、帰りたい」という強い絆に呼び寄せられているのだと思う。これは、本当に嬉しいことだ。

この日のカーテンコール、観客総立ちの中、ソロでステージに戻ってきたノットは、手にメッセージ入りフラッグ(タオル)を持っていた。観客に向かって高々と掲げたフラッグに書かれていたのは「I’m home!」ただいまであった。
それは楽団の関係者があらかじめ準備した小道具だったのかもしれないが、まさにノットさんの気持ちを代弁していたのではあるまいか。
そして観客も、拍手する手に更に力を込めながら、心の中でこう叫ぶ。
「おかえり!」と。


演奏を聴いても、同じ感慨が沸く。
「ああ、ノットの演奏だな。そうそう、これがノットなんだよな。」
スコアの分析に余念がなく、ディティールをしっかりと詰めているが、それでいて描き方は俯瞰的。物語を紡ぐというよりは、壮大なパノラマ画を作成しているかのよう。
特にマーラーでは、作品そのものやオケの演奏に語らせるのではなく、主導権を完全に指揮者が握って、独自の世界観を構築させる。
結果として、テンポにしても、強弱、音色、どれもこれもユニークなものとなるが、ノット自身は別に奇を衒っているわけではなく、自らのスコア解釈の正当性を堂々と主張するのだ。
その心意気や良し。

正直に言ってオーケストラの技術的精度は、完璧とは言い難かった。
だが、「技術的な話なんかどうでもいい」とでも言わんばかりの指揮者の牽引力だった。

ワクチン接種が進まないのは

ヨーロッパでは、コロナの感染者数や死亡者数がここへ来て減少傾向を示し、徐々に落ち着きを取り戻しつつあることから、これに合わせて、少しずつ公演の再開に向けて動き出す劇場などが出てくるようになった。現時点では入場者数に上限を設けるなど、完全な形での復活はもう少し先の話のようだが。

このような兆しが見えてきたのは、欧米各国が、まず相当に厳しいロックダウン措置を行って、次にワクチン接種を強力に推し進めた成果だと言えるだろう。
特に、アメリカとイギリスの二か国はワクチン接種率(ワクチンを1回以上摂取した人の人口に占める割合)が非常に高い。集団免疫の獲得までもう一歩というところまで来ているらしい。ワクチン接種者に対しては、早くも旅行の解禁やマスク着用の非義務化などの動きも出ていて、「ちょっと浮かれムードが過ぎるんじゃね!?」みたいな傾向がなくもないが。

翻って、遅々として進んでいない我がニッポン。
やっていることと言えば、緊急事態宣言を発令し、人流抑制のために「お願い」「要請」をして、国民に我慢を押し付けているだけ。その間、医療体制の整備拡充も進まず、感染拡大→緊急事態宣言→感染減少→宣言解除→人流の動き活発化→感染再拡大→緊急事態宣言、というパターンがバカみたいに繰り返されている。で、そうこうしているうちに国民もいい加減我慢しきれなくなって、だんだんと政府の言うことも聞かなくなっている。

もはやお笑い種でしかない。

このウィルスは、いつの間にか季節とともに収束することはない、ということが分かっている。自然消滅しないのだ。
ならば、上に書いたように、「感染が増えたから宣言」「減少したから解除」をただ単に繰り返しているだけでは、何の解決にもならないわけである。

なのに、一生懸命それを繰り返しているお粗末さ・・・。

国民はようやく気が付いた。
現状において、解決できる唯一の策は、ワクチン接種しかないのだということを。

だったら早く打てばいいではないか、と思いきや、肝心のワクチンが十分に確保出来ていないという悲哀。
情けない・・・。もう「先進国」というプライドは、とっとと返上した方がいい。

ということで、多くの国民が嘆き、怒りの矛先を政府に向けているわけだが、ちょっと待った。
何を隠そう私自身は、そうした責任の一端は国民側にもあると思っているのだ。

アメリカ、EU、ロシア、中国などの各国が多額の資金を投入してワクチン開発に乗り出し、競って供給体制を整えていた時、我々は何してた?
傍観してたでしょ?

「そんなに早く開発された物を使って、本当に安全なのか?」
「副反応が出たら、どうするつもりだ!?」

マスコミが煽った面も大きいが、そうやって多くの国民が不安に苛まれ、ワクチン需要の気運は一向に高まらず、結果、後手に回ったというわけだ。
国民感情がそんなわけだから、認可する厚労省だって当然慎重になる。この時、絶対に「安全かどうか、副反応が出ないか、他国の様子をじっくり観察しようじゃないか」という目論見があったはずだ。つまり、後出しジャンケンを決め込んだわけである。

その目論見は裏目に出た。いざ「やっぱワクチンが必要だぞ。」と皆が気が付いても、時既に遅し。我々は出遅れたのだ。その原因の一つとして、ネガティブな国民感情が迅速化の足を引っ張ったんじゃないか、と私は思うわけである。

それに、その程度の政策しか打ち出せない政治家を選んでいるのも、結局は我々国民、というわけさ。

まあとにかく、頑張りましょうや。もうしばらくの辛抱だと思ってさ。我々が出来る基本的な対策を、地道にやっていきましょう。

2021/5/22 二期会ニューウェーブオペラ

2021年5月22日   二期会ニューウェーブオペラ   めぐろパーシモンホール
ヘンデル   セルセ
指揮  鈴木秀美
演出  中村蓉
管弦楽  ニューウェーブバロック・オーケストラ・トウキョウ
新堂由暁(セルセ)、櫻井陽香(アルサメーネ)、和田美樹子(アマストレ)、高橋翔平(アリオダーテ)、牧野元美(ロミルダ)、雨笠佳奈(アタランタ)、菅原洋平(エルヴィーロ)


バロック・オペラの魅力を知る機会を私達に提供してくれる二期会ニューウェーブオペラ。鈴木秀美の指揮によるヘンデル・シリーズは、「ジュリオ・チェーザレ」、「アルチーナ」に続き、これで3回目だ。

ヘンデルのオペラと言えば、昨年11月にBCJが鈴木優人氏のプロデュースで「リナルド」を上演した。また、2005年のニューウェーブオペラでは、鈴木雅明指揮のBCJでも「ジュリオ・チェーゼレ」をやっている。
つまり、これはもう二期会というより、とにかく鈴木一族の専売特許みたいになっちゃっているのだ。

おいおい、誰か他にいないんかい!? 「やあやあ、我こそは・・」みたいに名乗りを上げる勇敢な者は!?

古楽演奏」という壁があると思っているんじゃないの? そこに怖気づいているから、結局彼らの独壇場になっちゃうんじゃないの?
別にこだわらなくたっていいじゃん。普通の楽器でいいじゃん。バロックの専門家でなくてもいいじゃん。
形式は何でもいいからさ、もっとやろうよ、バロック・オペラ。楽しいよね。音楽は分かりやすいし、物語も一見複雑そうだが実は単純で他愛のないものばかりだし。(三角関係、四角関係のラブストーリーばっか)

えー・・・どうやら名乗りを上げる勇敢な者はまだ現れないみたいなので、仕方がない、やっぱり鈴木一族にもうしばらく頑張ってもらいましょう。
(来年、新国立劇場グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」の上演が予定されているが、これもまた指揮が鈴木優人さん。)


今回のプロダクションは、演出に舞踏家の中村蓉さんを起用したのがポイント。
二期会は、以前にもH・アール・カオスというダンスパンパニーを率いる大島早紀子氏を起用するなど、オペラとダンスの融合に積極的に挑戦している。

この試みは面白い。
そして、今回も見事に吉と出た。

大島さん演出では、ダンスパートは完全に自カンパニーに任せるのに対し(めっちゃアクロバティックなので当然だが)、今回の中村さん演出は、専門ダンサーを配置しつつ、ソリスト歌手たちにも躊躇なく踊りの振り付けを施している点が特徴だ。

歌手の皆さん、大変だったと思う。相当の練習量を求められたのではないだろうか。
振りを覚えるだけでも大変であろうに、それを自然に身体が動くくらいにまで叩き込み、それでなおかつ歌う。
本当によく頑張ったと思う。ぎこちなさは皆無だった。しかも表情も生き生きとして楽しそうで、まるでミュージカル。

そうなのだ。オペラの舞台に立っている人たちって、ある意味、歌唱芸術のスペシャリストなわけだが、オペラである以上は、演技や踊りが出来なければダメなんだ。人は音楽を聴いて感動するが、物語や演技でも感動できるし、決して侮れないものなのだ。

ニューウェーブと名付けられているとおり、ソリスト歌手たちはオーディションを勝ち抜いた若手の皆さんだが、今回のチャレンジはきっと彼らの肥やしになったはず。今後の舞台出演の際に必ず役に立つであろう。


ところで、セルセ(クセルクセス)といえば、「オンブラ・マイ・フ」。
私はキャスリーン・バトルが出演したニッカウイスキーのCMをリアルタイムで見た世代。
それはいいとして、今回の舞台では、演出においても、あるいは音楽においても、この「オンブラ・マイ・フ」が出発点であり、全体の肝であった。
序曲が終わってすぐに、プラタナスの木の下で歌われるこのアリア。重要な役割を担っているダンサーたちは、このプラタナスの枝であり、かつ木の精という設定。
そして、終幕のエンディングで、あたかもアンコールのように、本来は無いセルセのアリア「オンブラ・マイ・フ」をもう一度。

聴衆は、しっとりとした美しい旋律とともに、印象として強く心に残ったのではなかろうか。
そして、これがまさに制作側の狙い、ドンピシャだったというわけ。