クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2020/9/18 N響

2020年9月18日   NHK交響楽団   東京芸術劇場
指揮  広上淳一
ウェーベルン  緩徐楽章(弦楽合奏版)
R・シュトラウス  歌劇「カプリッチョ」より前奏曲弦楽合奏版)、組曲「町人貴族」


コロナのおかげで、というと語弊があるが、密を避けるためのプログラム変更によって、逆に魅力的な作品を鑑賞するチャンスが幾つか生まれている。
東京シティ・フィル然り、読響然り。そしてこのN響

もっとも、これらはあくまでも私の個人的な嗜好に合致しただけなのだが。

主催側からしてみれば苦渋の決断による変更かもしれないが、私なんかは「むしろ、最初からこういうプログラムで行けよ」なんて思っちゃうわけである。

とはいえ、弦楽合奏作品だったり、小規模編成作品だったりは、やっぱり楽団員の出番の問題があって、積極的に組めない事情があるのだろう。
だから、最初に書いたとおり「コロナのおかげで」という言い方になるわけだ。
まあ、とりあえず何事も前向きに捉えようではないか。


ウェーベルンの緩徐楽章は、生で初めて聴いた。
元々は弦楽四重奏のための作品だが、弦楽合奏のしっとりとした響きがなんとも心地よい。
十二音技法で有名なウェーベルンだが、若かりし頃の習作のため、まだ和声がそれほど複雑でなく、マーラーの延長上として、とても聴きやすい。

続いてカプリッチョ
こちらも元々は弦楽六重奏で、シュトラウスのオペラとして慣れ親しんでいる作品だが、やはり弦楽合奏ならではの響きの美しさが際立つ。

そして、町人貴族。
N響の皆さんはさり気なく演奏しているが、個々のソリスティックな演奏技術の安定感がバツグン。何とも言えない優雅さに、思わず「さすが、上手い」と唸る。この作品はしっかりと手中に収めて上手に演奏しないと、しばしば退屈感を催してしまう。結構難しい曲なのだ。

指揮の広上さんのタクトは、いつものようにタクトだけでなく体全体を使った表現力がとてもユーモラス。
一見すると、音楽に合わせて躍っているだけのような感じだが、実は正反対で、あの動きで音符に生命感や躍動感を吹き込んでいるのだ。ヒューマニティ溢れる音楽が実に素晴らしい。


それにしても残念だったのは、客入り。ガラガラ。
これはもう、ソーシャルディスタンス確保のための座席配置の結果じゃなくて、単純に不入り。

プログラムの変更、指揮者の変更、会場・・・。
すべてが裏目に出ちゃったわけだね。あーあ。

私の個人的な嗜好との合致は、ライトなお客さんからは相容れられず、客席が埋まらないという厳然たる事実・・・。

演奏が良かっただけに、つくづく残念。

1997/9/13 ウィーン国立 トリスタンとイゾルデ

1997年9月13日   ウィーン国立歌劇場
ワーグナー  トリスタンとイゾルデ
指揮  ズービン・メータ
演出  アウグスト・エヴァーディング
ジョン・フレデリック・ウェスト(トリスタン)、ガブリエレ・シュナウト(イゾルデ)、ペーター・ローゼ(マルケ王)、ファルク・シュトルックマン(クルヴェナール)、マリヤーナ・リポヴシェク(ブランゲーネ)、ゴットフリート・ホルニック(メロート)    他


ベーレンスの「サロメ」を観るためにウィーンにやって来たわけだが、別にベーレンスの「イゾルデ」でも良かったんだよね。何なら連日で両方歌ってくれても良かったんだよね。

おっと、もちろんそんな無茶なこと、出来るわけがない。冗談さ。

この頃、ベーレンス、シュナウト、それからポラスキの3人が、最高のドラマチック・ソプラノとしてしのぎを削り、世界で大活躍していた。

だが、歌唱の特性は、三者三様。

シュナウトの声は非常に硬質で、金属的な輝き、眩さが持ち味だ。威力も半端なく、分厚いオーケストラの響きをいとも簡単に突き抜けるほど。ウルトラマンが放つスペシウム光線みたいな感じかな(笑)。
この日のイゾルデも、パワー全開で圧倒的だった。

シュトルックマンのクルヴェナールを聴けたのは、個人的にとても嬉しかった。
私が初めてシュトルックマンという歌手を知ったのは、ちょうどこの2年前くらい。
1994年バイロイト音楽祭の「トリスタンとイゾルデ」上演を収録した映像(バレンボイム指揮、H・ミュラー演出)がテレビ放映され、それを観て、シュトルックマンの堂々としたクルヴェナールに感銘を受けたのだ。
ファルク・シュトルックマン・・・知らなかったけど、この歌手いいじゃないか!! その名をしかと覚えておこう。

そうやってマークしていたところ、ウィーンで聴けることとなった。しかもクルヴェナール。「やったー!」というわけ。
まさかその後、アンフォルタス、ヴォータン、ザックスなどのワーグナー諸役で不動の地位を築くほどまでに成長するとは思わなかったが。

トリスタンのJ・F・ウェスト。
シーズン・ラインナップが発表された時のトリスタン役の歌手から替わっていた。後から知ったのだが、その歌手は交通事故で死亡してしまい、代役でウェストが起用されたとのことだ。(名前は忘れた。サルバトーレ・リチートラじゃないからね)

私は彼が出演したオペラ公演をこれまでに4回聴いている。
なんと、全部「トリスタンとイゾルデ」である。
日本でも、2000年ベルリン・フィルの「ザルツブルクイースター音楽祭」来日公演、2001年バイエルン州立歌劇場来日公演で、トリスタンを歌っている。
つまり、ウェストと言えば「トリスタン」。トリスタン役で一世を風靡し、世界のあちこちで歌い、いわばスペシャリストというわけだ。
(御本人からすれば、「いやいや、それだけでメシ食ってたわけじゃないぜ」とおっしゃるかもしれないが)
トリスタンの上演にあたり、ウェストは貴重な“資源”として大いなる需要があったわけだが、要するに「他にいなかった」という深刻なヘルデンテノール不足の事情は、正直あったわけだよなー。


エヴァーディングの舞台は、1986年のウィーン国立歌劇場来日公演で披露された「トリスタンとイゾルデ」と同じ物だ。
私はこの頃まだオペラに関心がなかったため、来日公演に行っていない。(この時のトリスタン役には、しっかりとルネ・コロ様が入っていたっけ。)
特に第一幕の舞台が印象的で、よく覚えている。マストや帆によって形作られた写実的な船上の装置がとてもいい雰囲気で、すぐに物語に没頭することができた。
対照的に、第三幕は舞台上にほとんど何もない簡素な装置だったが、荒涼さを表現すると同時に、観客を音楽と歌唱に集中させて、作品を見事に完結させていたと思う。


それにしても、今あらためて思うのは、この頃のウィーンは、まだ脚本に忠実なオーソドックス演出がしっかりと基本になっていたなあ、ということ。
この時に観た4本「ドン・カルロ」「トリスタンとイゾルデ」「サロメ」「エフゲニー・オネーギン」は、いずれもオーソドックス演出だった。
時代は新たな局面を迎えつつあり、バイロイト音楽祭を始めとして、実験的要素を採り入れた読み替え演出が徐々に幅を利かせるようになっていた。
しかし、伝統を重んじるウィーンは、かなり頑な姿勢を保っていたと思う。
今でもウィーンは、どちらかと言えば保守的だ。観光客=初心者が売上げを支えている部分が少なくないからというのもあるのだろう。
それでも、徐々に少しずつ、そうした潮流を受け入れている。


最後に、メータについて。
この日の公演は、彼に捧げられていた。ウィーン国立歌劇場名誉会員の称号が授与され、その記念公演と銘打たれていたのだ。
だからというわけではないが、気合が漲った、力強い、推進力のある演奏だった。まるで、極太の筆に墨をたっぷり含ませて書き上げた達人の「書」のような出来栄えだったと記憶する。

終演後、ステージ上で即席の授与式が行われた。海外の劇場でこうしたシーンにお目にかかるのは珍しく、貴重な機会だったと思う。
メータはここで答礼のスピーチを披露したが、ドイツ語だったので、もちろん何を言ったのかは不明。
もっとも、こういう場で話す内容なんて、アカデミー・アワードと同様、ありきたりのはずだが。

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2020/9/13 東響

2020年9月13日   東京交響楽団 名曲全集   ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮  原田慶太楼
鐵百合奈(ピアノ)
スッペ  詩人と農夫序曲
ベートーヴェン  ピアノ協奏曲第0番
プロコフィエフ  交響曲第5番


どこのオーケストラも、客席だけでなく、ステージ上においても「密」を避けるために、当初に組んだプログラムを見直す作業を行っている。
そこで新たに何の曲をやるかについては悩みどころで、奏者の間隔を開けるため、結果として古典などの小編成作品や、弦楽合奏・管楽合奏作品を採り入れるなど、色々と御苦労されているようだ。

そんな中、今回東響は当初のプログラムを変更させることなく、そのまま、さりげなくしれーっと、比較的規模の大きい「プロ5」(三管編成)をやってのけた。

ステージ上にはフルオーケストラの面々。
先日の読響では、弦楽器奏者は二人でのプルトを組まず、間を開け、譜面台も一人一台だったのに、東響は通常どおり二人一組のプルト。管楽器との距離も特別に大きく取っているわけでもない。

やったじゃんか! 確信犯的? 堂々と先陣を切ったわけ? 勝負に出たわけか?

いやいや、いいと思うぜ。ホント。マジで。

コロナの感染って、人の口からの飛沫が問題なんでしょ?
オーケストラの場合、歌唱と違い、黙って演奏するわけで、飛沫を飛ばさないんだから。

もちろんエアロゾルの問題は完全に捨て切れないだろう。特に管楽器はね。
でもねえ。それを言ったら、我々の日常生活における電車の中、ビルや施設の中、職場、家、どうなのよ?って話。

プロコ、良かった。久々に聴いて感動した。いい曲だよなあ。大好き。


指揮者の原田氏。近年、日本国内で急速に知名度を上げ、今、乗りに乗っている若手指揮者。来年4月からは東響の正指揮者就任が決まっている。私は今回初めて聴いた。
(初めて聴いたと言えば、ベートーヴェンのP協「ゼロ」番は、びっくりしたなあ。)

とにかく活きが良くて、キレがあって、ダイナミック。
単に力を込めて振り回しているだけかと思ったが、頭の中でスコアを整然と鳴らしてる印象が伺える。
時に打楽器などを猛烈に叩かせて音量をマックスにさせていたが、あれは間違いなくわざとそうさせたんだろうな。なぜなら、指揮者って尋常じゃないくらい耳が良い人たちなので、出てくる音の総量とバランスに無頓着であるはずがないから。

ただ、個人的な好みで言えば、あの曲は爆発ではなく、爆発寸前の溜まったマグマの塊のような充満した響きの方がいい。これはあくまでも好みの問題。

でも良い良い。若いんだし、思い切り鳴らしちゃえ。世の中、コロナで鬱憤が溜まっているんだ。あれくらい鳴らせば、爽快ってもんだぜ。

1997/9/13 ウィーン2

ウィーン二日目。
最初に訪れたのは、ウィーンの定番観光スポット、シェーンブルン宮殿
私自身が既に何度も訪れていたとしても、ウィーン初めてのお連れ様がいらっしゃる場合は、必ずここに御案内する。そうしなければならない。それくらいの定番観光スポット、シェーンブルン宮殿

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続いて、セセッションと呼ばれるウィーン分離派会館。

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ここは、グスタフ・クリムト作の「ベートーヴェン・フリーズ」が常設展示されていることで有名だ。

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このベートーヴェン・フリーズ、昨年に開催されたクリムト展でレプリカが来日した。ご覧になった方もいらっしゃろう。私も当然行った。
さすがに本物は建物の壁に描かれているので持って来られないが、レプリカは本物と見紛うくらいに精巧だった。しかも近接で観られたのは大きい。現地では壁に描かれている分、高さがあり、遠い。

この作品、ベートーヴェン交響曲第9番、いわゆる「第9」をイメージして作られたことで知られる。
実際の絵を見ると、あの「第9」の曲想からは程遠く、イメージとのギャップが生じる。ウィーンで初出展された時の世評も芳しくなく、私も初めて見た時は「これのいったいどこが第9なの?」と戸惑ったものだ。

だが、今となっては、「さすがはクリムト、これぞクリムト」と感嘆することが出来る。
つまり、これは芸術家の際限のない想像力の賜物だ。

この想像力は、オペラの現代演出における欧州の演出家のイメージの膨らませ方によく似ていると思う。
見えたとおり、聞こえたとおりのイメージに当てはめるのではなく、そこからいかに飛躍させるか。そこに、いかに自分のオリジナリティを加えられるか。

つまり、我々はまさに鑑賞力を試されているようなものなのだ。


この後我々は、クリムトのコレクションとして世界最大級を誇るベルヴェデーレ宮殿上宮のオーストリア・ギャラリーを訪れ、まさにクリムトの世界、ウィーン世紀末における頽廃芸術の精美に触れたのであった。

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1997/9/12 ウィーン国立 ドン・カルロ

1997年9月12日   ウィーン国立歌劇場
ヴェルディ   ドン・カルロ
指揮  ミヒャエル・ハラス
演出  ジャン・ルイージ・ピッツィ
フェルッチョ・フルラネット(フィリッポ2世)、ニール・シコフ(カルロ)、カルロス・アルヴァレス(ロドリーゴ)、エリアーヌ・コエッリョ(エリザベッタ)、ヴィオレッタ・ウルマーナ(エボリ公女)、グレブ・ニコルスキー(宗教裁判長)    他


以前の記事に書いたとおり、初日のこの日に限り、立ち見鑑賞を決行した。
この立ち見席、ミラノ・スカラ座バイエルン州立歌劇場など、ウィーン以外でも設けている劇場はあるが、たいていは天井に近い上階エリアが普通である。
ここウィーンにおいて特筆すべきなのは、上階エリアだけでなく、平土間席の後方にも設置されていること。場所的には、客席全体の中でも、ある意味特等席と言える。
数メートル離れた場所に座っている人のチケット代はおよそ2万円。こっちは300円。学生など安く観たい人にとって、利用しない手はない。
しかも、立ち見用として割り当てられている総数は500以上。非常に多い。だから、一見さんのような観光客も、連日のように通っている地元の常連客も、常にたくさんの人たちが群がっている。

必ず当日に販売される、というのも大きい。
ネームバリューのある指揮者や歌手が登場するプレミエ公演だと、前売り券が早々に完売となり、入手難となることがある。そうした場合、最後のチャンスとして「立ち見席があるではないか」というのは、とてもありがたい。前売り券の入手は運にも左右されるが、立ち見席なら「頑張れば必ず観られる」というわけだ。

私は、本公演を含め、これまでに5回ほどウィーンで立ち見鑑賞している。
近年、歳を取るにつれて、立って鑑賞するのはしんどいと感じるようになったので、利用が遠のきつつあるが、上演時間が長くないオペラなら、いいかもしれない。
2時間くらいの作品で、しかも幕間休憩もしっかり2回ある「トスカ」とか「トゥーランドット」なんか、最適だね。

逆に言うと、長大なワーグナー作品を立ち見で観る人たちの根性は、すごいというか、信じられないというか、無謀というか(笑)。
でもね、幕が進むに従い、単なる観光客の一見さんたちが次々とドロップ・アウトしていき、エリアから人が減っていくという現象が起きるのだ。そして最後は猛者だけが残る。これはなかなか面白いね。
(※ 現在ウィーン国立歌劇場は、このコロナ禍においても9月から20-21年シーズンを開始させているが、三密エリアと言っても過言ではない立ち見席は、さすがにクローズにしているとのこと。)


立ち見の話が長くなってしまったが、本公演について話を戻そう。
出演キャストを見てほしい。錚々たる顔ぶれだ。

数々のヴェルディのオペラの中で、ドン・カルロほど「いい歌手が揃うかどうか」がカギになる作品はないのではないか。
フィリッポ2世、カルロ、ロドリーゴ、エリザベッタ、エボリ公女・・・それぞれが個性的な役柄で、音楽的にも聴き応えのあるアリアが散りばめられている。良い歌手が各々の持てる実力をフルに発揮した時、このオペラはキラキラと輝く。
で、そうした優秀な歌手を集めることが出来るのが、一流歌劇場の証。ウィーン国立歌劇場は、そういう意味でも世界のトップ歌劇場の面目躍如というわけだ。

シコフ、アルヴァレス、フルラネット。世界にその名を轟かせている彼ら。
その彼らを、私はこの時初めて聴いた。感激だったし、「さすが」と唸った。特にフルラネットは、フィリッポ2世歌いの第一人者として、やがて他の追従を許さなくなっていくのである。

だが、実を言うと、この公演で最も衝撃を受けたというか度肝を抜かれたのは、ウルマーナだった。
彼女については、当時、名前だけ聞いたことがあるといった程度だったが、本当に驚いた。ヘビー級王者のようなド迫力の歌声だった。

ウルマーナは、この頃から世界最高のメゾの一人として一気にスターダムにのし上がっていった。その破竹の勢いの瞬間をこの時目撃することが出来たのは、とても良かった。

2020/9/8 読響

2020年9月8日   読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮  尾高忠明
小曽根真(ピアノ)
G・ウィリアムズ   海のスケッチ
モーツァルト   ピアノ協奏曲第23番
ペルト   フェスティーナ・レンテ
オネゲル   交響曲第2番


2月のムターのリサイタル以来、半年以上ぶりのサントリーホール

コロナの影響で楽しみにしていた公演が中止になったり、プログラムが変更になったりして、がっかりすることがある一方で、プログラム変更のおかげで逆に魅力的な公演に様変わりし、思わぬ拾い物となることがある。
先日の東京シティ・フィルの公演がそうだった。今回もそう。

本公演の元々のメインプロはウォルトン交響曲だったが、日頃から機会あれば聴きたいと思っているオネゲル交響曲に替わったというのは、わたし的には嬉しい。
それだけではなく、プログラムの再編にあたり、元々にあった弦楽合奏曲「海のスケッチ」を繋ぎ発展させていく形で、同じく弦楽合奏をベースとするペルト作品とオネゲル作品を並べるという采配の仕方が、本当に粋。指揮者尾高さんの見識とセンスがとにかく光る。

大規模編成作品の演奏が困難となる中、密を避けるためのアイデアとして、弦楽合奏曲は一つの選択肢と言えるが、実は、脚光浴びるべき珠玉の名曲がたくさんある。

多くの人に知られているのは、例えばチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」やシェーンベルクの「浄夜」などだろう。
もっとライトに広げれば、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」やヴィヴァルディの「四季」なども挙げられよう。
私だったら、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」、レスピーギの「リュートのための古代舞曲アリア第三組曲」、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」、ベルクの「叙情組曲」などはカウントしたいし、何と言ってもR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」は、すべての管弦楽曲の中で第1位をあげてもいいくらい好きな作品だ。

また、純粋な弦楽合奏作品ではないが、マーラーブルックナー交響曲アダージョ楽章が眩いくらいの神々しさを放つ時、弦楽器のしっとりとした泡立ちと香りが心を揺り動かす渦の源となっているのは、誰もが理解するところだろう。

そういうわけだから、コロナ禍の中のやむを得ない措置ではなく、楽団員の出番の問題は別にして、もっと弦楽合奏曲を積極的に採り上げてほしいと、心からそう思うわけである。


さて、ウィリアムズの作品は今回初めて聴いたが、素敵な曲だった。「海のスケッチ」というタイトルが付けられているとおり、確かに海の景色が目に浮かぶようだった。
ただ、面白いのは、その情景はどこか寂寥感が漂う雰囲気で、しかも我々が思い浮かべる日本海の荒々しいイメージともまた異なる。どちらかと言えば、ブリテンの「ピーター・グライムズ」の寂れた世界がしっくり来る。
そこらへんはやっぱり北海や大西洋を眺めているイギリス人作曲家(※正確にはウェールズ人)の独特の感覚なのだろう。

モーツァルトのコンチェルトは、一転して小曽根さんらしい弾けた演奏。
クラシックの枠にきちんと当てはめようとしながらも、その枠の範囲内でどこまで「遊び」を散りばめられるか、それに勝負をかけているみたいな意気込みが、なんとも愉快。

そんな小曽根さんを見ていて、ふと思った。
モーツァルトって、小曽根さんみたいな人だったんじゃないか、と。
才能はあるけど、どこか異端児で、やんちゃで、枠に収まらなくて、溢れてしまった才能でつい遊びに走っちゃう、みたいな。
コンチェルトも良かったけど、アンコールのジャズは最高だった。これぞ本業の真骨頂なり。

メインのオネゲルは、指揮者尾高さんが広げる裾野と、そこに飛び込んでいこうとオケを引っ張るリーダー日下さんの突き進み具合が絶品ナイスだった。この二人のおかげで、粒立った音が光彩を放ち、圧倒的な熱量を生み出していた。

一つだけ残念だったのは、個々の奏者の間隔を開けていることで、時々音が塊になりきれず、霧散してしまう。
なるほど、物理的な問題というのは、結構正直に音に跳ね返ってしまうのだなと痛感。

2020/9/5 二期会 フィデリオ

2020年9月5日   二期会   会場:新国立劇場
ベートーヴェン   フィデリオ
指揮  大植英次
演出  深作健太
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
合唱  二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
黒田博(ドン・フェルナンド)、大沼徹(ドン・ピツァロ)、福井敬(フロレスタン)、土屋優子(レオノーレ)、妻屋秀和(ロッコ)、冨平安希子(マルツェリーネ)、松原友(ヤッキーノ)   他


意見や好みが分かれるであろう演出であった。
まあ、好みについてはどうでもいいとして、意見が分かれることについては、深作さんからしてみれば想定の範囲内だろう。
それを先刻承知の上で、そこから逃げようとせず、自らの洞察について正々堂々と主張した。
その信念と潔さについては、私は深く尊敬の意を表するものである。なぜならそれこそが演出家の仕事だと思うからだ。

だが、結果に対する私の意見としては、主張の展開のさせ方について、少々無理があったのではないかと感じた。

着眼点は素晴らしかったし、その見識についても目を見張るものがあった。相当に難しい課題に向き合い、チャレンジしたことも、率直に評価しなければならないだろう。

深作さんは、作品の中に潜む「自由への讃歌、希求」というテーマから、「壁」というモチーフに辿り着いた。
そのヒントが、ベルリンの壁が崩壊したことで催されたバーンスタイン指揮による第9コンサートにあることは明白。その時バーンスタインは、歌詞にあった「喜びFreude」を、「自由Freiheit」に変更して歌わせた。

ここで彼は、「壁とは、歴史の断片において常に人類の分断の象徴である」と見極めた。

そこまではいい。
いいどころか、非常に卓越した知見である。

ところが、分断を乗り越えるための人類の闘争の歴史にまで話を及ばせようとし、それを紗幕に映像を投射させて一つ一つ辿り始めた瞬間から、あたかも教科書のページをめくっているかのように説明的になり、単なる網羅となり、表面的で浅薄になってしまった。

アウシュヴィッツ、東西冷戦とベルリンの壁イスラエルパレスチナ問題、イスラム過激派によるテロリズム・・・・
なるほど、確かにどれもが、分断の歴史そのものだ。
だが、その一つ一つに重みがありすぎる。このため、連続的、包括的にまとめるのは難しい。そこに、宗教、民族、政治、アイデンティティやプライド、パワーバランスが絡む。あまりにも複雑なマターなのだ。
つまり、「分断の象徴と連鎖」と単純に要約し切れないメカニズムが各々に存在しているということだ。

それを「壁を巡る人類の闘争」を歴史として時系列に並べて俯瞰したことで、このフィデリオというオペラにいったい何を残すことが出来たのか?

正直に言って、物語と音楽が置き去りにされたとしか言いようがない。

あくまでも個人的な見解だが、いっそのことアウシュヴィッツ問題と東西冷戦によるベルリンの壁問題だけに絞った方が良かったのではないかと思う。
これらは、フィデリオという作品に内在するテーマとして、フィットする。「Arbeit macht frei」と「Freiheit」は、表裏一体として緊密に結びつく。

そうやって特化した問題をテーマとして掲げたら、あとはそれを説明するのではなく、提示、あるいは暗示して、観た人に考えさせる。
現代において「分断」がどのような意味を持つのか。
「それは我々現代人が直面している課題であり、深く考えるべき問題だ」と、投げ掛けさえすればいいのだ。

そういうわけだから、御親切に紗幕に説明文を入れる必要もない。それを入れてしまうというのが、何だかいかにも“この国”的だ。

日本人は分からない時、安直に答えを求めたがる。オペラでも、分からない演出に対して「そういうのはけしからん」と不満を述べ、否定する。

要するに、考えさせられるのが嫌だし、苦手なのだ。
だから、演出には「すっきり」を求める。
深作さんは、前回ローエングリンを演出した際、「よく分からなかった」という意見を多くもらったらしい。今回、そうした意見を汲み取ったわけだ。

だが、私は個人的に反対だ。
観客には考える力がある。その力を信じてほしいし、信じるべきだ。考えようとしない怠慢なヤツらの意見なんかに、耳を貸す必要はない。

ヨーロッパでは、近年、単なる読み替えから、そうした「考えさせようとする演出」が主流になりつつある。
映画だって、最近はそういう傾向が見られる。「善か悪か」の単純図式を好むハリウッドにしても「ジョーカー」を製作した。日本の是枝監督の作品もそうだ。

「オペラは音楽を聴く場であって、演出を考える場ではない」という意見は、私も十分承知しているし、否定をしない。
だから、そうした傾向を「絶対に正しい」と断じるつもりはない。

でも、様々な考えの中の「一つのあり方」だとは思う。


歌手について。
このブログで二期会公演の鑑賞記事を書く時、歌手について「いわゆる日本人という枠の中で『よく出来ました』というレベル」といった言い回しを、これまでに何回か使っている。
わざと遠回しに言っているわけだが、そこにはもちろん「世界レベルにおいて、全然物足りない」という意味が含まれていることは、誰もが容易に分かるだろう。

今回も、申し訳ないが、そういうことだ。

個々の歌唱において、評価できる部分は確かに見受けられる。
でも、全体として、手放しで称賛することは出来ない。

この日舞台に立った彼らのほとんどは、世界的に進境著しいお隣の国のカンパニーに行ったら、主役を張ることが出来ない。日本のトップテノール福井さんとて例外ではない。残念ながらそのレベルなのだ。そのことは、明確に位置付けて知っておく必要がある。


以上、いつものように、かつてのように、容赦ない辛口持論を展開させてしまったが、このコロナ禍のさなかで最大の「壁」(いちおう上の演出のテーマと引っ掛けたつもり)であるオペラ上演を開催にまで運んでいったのは、本当に画期的なことである。主催者、関係者の尽力に心から敬意を表したいし、感謝したい。よくぞここまで漕ぎ着けてくれました。

大きな声を出して歌うという行為は、エアロゾルの問題、飛沫感染対策という点で、非常に苦しい。オーケストラ公演とは警戒レベルの次元が異なる。

まだまだ課題は山積だが、とにかく万全を期した上で、少しずつ着実に道を歩んでいってほしいものだ。