クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2020/9/5 二期会 フィデリオ

2020年9月5日   二期会   会場:新国立劇場
ベートーヴェン   フィデリオ
指揮  大植英次
演出  深作健太
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
合唱  二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
黒田博(ドン・フェルナンド)、大沼徹(ドン・ピツァロ)、福井敬(フロレスタン)、土屋優子(レオノーレ)、妻屋秀和(ロッコ)、冨平安希子(マルツェリーネ)、松原友(ヤッキーノ)   他


意見や好みが分かれるであろう演出であった。
まあ、好みについてはどうでもいいとして、意見が分かれることについては、深作さんからしてみれば想定の範囲内だろう。
それを先刻承知の上で、そこから逃げようとせず、自らの洞察について正々堂々と主張した。
その信念と潔さについては、私は深く尊敬の意を表するものである。なぜならそれこそが演出家の仕事だと思うからだ。

だが、結果に対する私の意見としては、主張の展開のさせ方について、少々無理があったのではないかと感じた。

着眼点は素晴らしかったし、その見識についても目を見張るものがあった。相当に難しい課題に向き合い、チャレンジしたことも、率直に評価しなければならないだろう。

深作さんは、作品の中に潜む「自由への讃歌、希求」というテーマから、「壁」というモチーフに辿り着いた。
そのヒントが、ベルリンの壁が崩壊したことで催されたバーンスタイン指揮による第9コンサートにあることは明白。その時バーンスタインは、歌詞にあった「喜びFreude」を、「自由Freiheit」に変更して歌わせた。

ここで彼は、「壁とは、歴史の断片において常に人類の分断の象徴である」と見極めた。

そこまではいい。
いいどころか、非常に卓越した知見である。

ところが、分断を乗り越えるための人類の闘争の歴史にまで話を及ばせようとし、それを紗幕に映像を投射させて一つ一つ辿り始めた瞬間から、あたかも教科書のページをめくっているかのように説明的になり、単なる網羅となり、表面的で浅薄になってしまった。

アウシュヴィッツ、東西冷戦とベルリンの壁イスラエルパレスチナ問題、イスラム過激派によるテロリズム・・・・
なるほど、確かにどれもが、分断の歴史そのものだ。
だが、その一つ一つに重みがありすぎる。このため、連続的、包括的にまとめるのは難しい。そこに、宗教、民族、政治、アイデンティティやプライド、パワーバランスが絡む。あまりにも複雑なマターなのだ。
つまり、「分断の象徴と連鎖」と単純に要約し切れないメカニズムが各々に存在しているということだ。

それを「壁を巡る人類の闘争」を歴史として時系列に並べて俯瞰したことで、このフィデリオというオペラにいったい何を残すことが出来たのか?

正直に言って、物語と音楽が置き去りにされたとしか言いようがない。

あくまでも個人的な見解だが、いっそのことアウシュヴィッツ問題と東西冷戦によるベルリンの壁問題だけに絞った方が良かったのではないかと思う。
これらは、フィデリオという作品に内在するテーマとして、フィットする。「Arbeit macht frei」と「Freiheit」は、表裏一体として緊密に結びつく。

そうやって特化した問題をテーマとして掲げたら、あとはそれを説明するのではなく、提示、あるいは暗示して、観た人に考えさせる。
現代において「分断」がどのような意味を持つのか。
「それは我々現代人が直面している課題であり、深く考えるべき問題だ」と、投げ掛けさえすればいいのだ。

そういうわけだから、御親切に紗幕に説明文を入れる必要もない。それを入れてしまうというのが、何だかいかにも“この国”的だ。

日本人は分からない時、安直に答えを求めたがる。オペラでも、分からない演出に対して「そういうのはけしからん」と不満を述べ、否定する。

要するに、考えさせられるのが嫌だし、苦手なのだ。
だから、演出には「すっきり」を求める。
深作さんは、前回ローエングリンを演出した際、「よく分からなかった」という意見を多くもらったらしい。今回、そうした意見を汲み取ったわけだ。

だが、私は個人的に反対だ。
観客には考える力がある。その力を信じてほしいし、信じるべきだ。考えようとしない怠慢なヤツらの意見なんかに、耳を貸す必要はない。

ヨーロッパでは、近年、単なる読み替えから、そうした「考えさせようとする演出」が主流になりつつある。
映画だって、最近はそういう傾向が見られる。「善か悪か」の単純図式を好むハリウッドにしても「ジョーカー」を製作した。日本の是枝監督の作品もそうだ。

「オペラは音楽を聴く場であって、演出を考える場ではない」という意見は、私も十分承知しているし、否定をしない。
だから、そうした傾向を「絶対に正しい」と断じるつもりはない。

でも、様々な考えの中の「一つのあり方」だとは思う。


歌手について。
このブログで二期会公演の鑑賞記事を書く時、歌手について「いわゆる日本人という枠の中で『よく出来ました』というレベル」といった言い回しを、これまでに何回か使っている。
わざと遠回しに言っているわけだが、そこにはもちろん「世界レベルにおいて、全然物足りない」という意味が含まれていることは、誰もが容易に分かるだろう。

今回も、申し訳ないが、そういうことだ。

個々の歌唱において、評価できる部分は確かに見受けられる。
でも、全体として、手放しで称賛することは出来ない。

この日舞台に立った彼らのほとんどは、世界的に進境著しいお隣の国のカンパニーに行ったら、主役を張ることが出来ない。日本のトップテノール福井さんとて例外ではない。残念ながらそのレベルなのだ。そのことは、明確に位置付けて知っておく必要がある。


以上、いつものように、かつてのように、容赦ない辛口持論を展開させてしまったが、このコロナ禍のさなかで最大の「壁」(いちおう上の演出のテーマと引っ掛けたつもり)であるオペラ上演を開催にまで運んでいったのは、本当に画期的なことである。主催者、関係者の尽力に心から敬意を表したいし、感謝したい。よくぞここまで漕ぎ着けてくれました。

大きな声を出して歌うという行為は、エアロゾルの問題、飛沫感染対策という点で、非常に苦しい。オーケストラ公演とは警戒レベルの次元が異なる。

まだまだ課題は山積だが、とにかく万全を期した上で、少しずつ着実に道を歩んでいってほしいものだ。