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ユベール・スダーン

ユベール・スダーンについて、こうして記事を書くのは何回目だろうか。
本当に良い指揮者。6月15日の東響公演を聴いて、つくづくそう思った。音楽監督の地位を離れても、桂冠指揮者としてこうして引き続き定期的に来日してくれるのは、実に喜ばしい。
 
スダーンの良さと魅力というのは、彼の音楽の作り方とタクトによる表現の仕方そのものにあるが、そこらへんは前日に東京フィルを振った某日本人指揮者との比較で鮮明になる。
 
本当はさ、指揮というのはオリジナリティそのものであって、比較すべきものではない。比較しちゃいけないんだろうけどさ。
でもやっぱり連日で聴き、その差を目の当たりにすると、否が応でも気が付いてしまう。だから、特色を浮き彫りにするという意味で比較させていただく。それが一番分かりやすいんでね。申し訳ないけど。
 
東京フィルを振った指揮者について、私は感想記事に「丁寧にタクトを振りすぎ」「手取り足取り、一から十まで」と書いた。
おそらくその指揮者は、スコアの十分な分析と解釈により、「ここはこのように振ろう、ここはこのようにテンポを設定しよう、ここはこのようにキューを出そう、ここは・・」と、すべてが入念な下準備とコントロールで、進行管理が万全に出来上がっているのだと推測する。
そのように振ればオーケストラを正しく導けるはずだし、オーケストラにとっても分かりやすい手引きとなるはず。そういう確信が伝わってくる。
 
つまり、丁寧すぎるほどのタクトは、オーケストラをリードし、自ら解釈する音楽を遂行するための必需テクニックであり、指揮法というメソッドによって徹底的に叩き込まれた根本ベースなのである。
 
スダーンのタクトを見てみよう。
事前のスコアの十分な分析と解釈が前提になっているところまでは一緒である。
問題はその後だ。
 
その後のスダーンの関心事項は、オーケストラをどう導くかという方法論を素通りし、どのような音楽であるべきかという結果一本に絞っているように見える。
それを達成するために、彼は内面に向かう。イメージを増幅させ、音楽の情熱をほとばしらせながら、懐の中で理想の音楽を作る。
タクトはイメージ創出表現の道具。だから別にオケに対して明瞭でなくてもいい。指揮法による振り方メソッドは不要。棒を持たないのも、そうした理由だ。
 
奏者に対しては「こうしてほしい」というお願いの合図を出すのではなく、「こうなのだ」という音楽の完成形を堂々と示す。オケをリードしない。オケを引っ張るのではなく、自らに惹き付け、引き寄せるのである。
 
すべての指揮者が、こうしたやり方でうまく行くとは限らないし、できるわけでもない。
こうしたやり方で下手をすると、指揮者とオーケストラが乖離を起こし、すれ違いの不完全燃焼に陥る場合がある。私はこういう演奏も、これまでに何度も聴いている。
 
スダーンはこのやり方で完璧な音楽を仕上げる。
なぜそれができるのか。
自己の音楽を強く共感させるような求心力がこの指揮者に備わっているからだ。
これを一言で言い表すと「カリスマ性」ということになるのだが、これぞユベール・スダーンとう指揮者の生き様であり、極意なのだと私は思う。
 
 
2019年6月15日   東京交響楽団   サントリーホール
シューマン  マンフレッド序曲、ピアノ協奏曲(ソロ=菊池洋子
チャイコフスキー  マンフレッド交響曲