クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

シュターツカペレ・ドレスデン

クリスティアンティーレマン指揮  シュターツカペレ・ドレスデン    サントリーホール
2018年10月31日   シューマン  交響曲第1番「春」、交響曲第2番
2018年11月 1日   シューマン  交響曲第3番「ライン」、交響曲第4番
 
 
来日公演で、ロシアのオーケストラが普通にチャイコフスキーを演奏するように、ザクセンが誇る世界的なオーケストラが、ザクセンに生まれたご当地作曲家シューマン交響曲を採り上げるというのは、本当は、ごく自然で当たり前のことなのかもしれない。
 
実際にはそうした機会は稀だ。
私はこれまでザクセン州の2大オーケストラ(もう一つはゲヴァントハウス管)の来日公演に合わせて30回くらい足を運んでいるが、シューマン交響曲がプログラムに入っていた公演は一つもなかった。
(すべての来日公演に行っているわけではないので、そうしたプログラムが中にあった可能性はあるが、今ここでそれを調べるつもりはない。)
 
ドイツオケの来日公演で頻繁に採り上げられる、ベートーヴェンブラームス、R・シュトラウスブルックナーマーラーなどに比べると、シューマン交響曲は、ひょっとすると「地味」なのかもしれない。
 
だが、決してそんなことはなく、来日公演の看板プログラムとして十分に魅力的であることを、ティーレマンが見事に証明してみせた。なんと爽快なことか!
いつも「またマラ1かよ」みたいに同じような曲が並ぶ傾向にうんざりしている私にとって、こういうプログラムは本当に嬉しい。
 
そういう私だって、シューマンが大好きかと言えば、正直言ってそれほどでもない。
しかし、こういう公演があることによって、隠れていた魅力を再発見することが出来る。「シューマン、いいじゃないか!?」と気付くことが出来る。
おそらく、今回の公演に足を運んだ多くのお客さんは、そう感じたんじゃないかと思う。
 
ティーレマンの音楽、シュターツカペレ・ドレスデンの演奏については、聴きながら、色々な感想、思いが頭に浮かんだ。
 
例えば、「明晰でアクセントの効いた造形については、まるで子音や撥音に独特の特徴が聞こえるドイツ語感が下敷きになっているのではないか」とか、「長いフレーズの中で起こる揺れや間、ディナーミクの変化などは、憂愁の明暗を持ち合わせた人間の感情表出そのものではないか」とか。
あるいは、「甘美さや素朴さを封印し、壮麗な響きと勇壮な高揚感を創出していたのは、シューマン自身の人生の一面にあるネガティブなイメージ(精神的な病、自殺未遂など)の払拭を、指揮者があえて試みた結果ではないか」とか・・。(ちょっと想像が飛躍しすぎか??)
 
いずれにしても、一つ確かなことがある。
そうした表現、解釈にあたり、ティーレマンの確信に一切の揺るぎがないことだ。その堂々たる威容に、我々は言葉を失い、ひたすらひれ伏すのみ。
彼のタクトを見ていると、オーケストラをリードしているとか、音楽を統括しているとかを更に超越して、会場の雰囲気、空間、聴衆の想像力、そうしたすべてを支配するかのような規範を意識せざるをえない。
 
このティーレマンの圧倒的な説得力が、最近ようやく日本のクラシックファンにも理解されてきた気がする。
かつて囁かれた「独善的、滑稽、あざとい」などといった陰口は、少しずつ影を潜めつつある。
 
かなり以前からティーレマンのカリスマ性に目を見張っていた私にとって、そうした傾向は胸がすく思いだ。