2015年2月23日
2015年2月24日
と最初に小言を一つ言っておいてから本題に。
このオーケストラ、上手いのはもちろんなのだが、その上手さに独特の味わいがある。それは例えばベルリン・フィルやショルティ時代のシカゴ響など、高い技術や機能性を持ちスーパーな性能を誇る上手さとは若干異なる。スポーツカーではなく、クラシックカー。そのサウンドは高級な漆塗りによって仕立てあげられた木目調のような気品が漂う。まさに至高の芸術品だ。
かつてルドルフ・ケンペがこのオーケストラを指揮して録音したシュトラウス諸作品のCDを聴くと、こうした特徴が手に取るようによく分かるのだが、このサウンドが現代においてもなお受け継がれているというのは奇跡。今回の公演は、こうした伝統の素晴らしさを体験できた貴重な機会だったと思う。
だが、どうであろう、今回はそうした「ドきつさ」はさほど感じなかったのではないだろうか。
ティーレマンは、タクトを止め、体のポーズによって音楽を導くことを演奏の中でよくやる(それ自体をあざといと言う人もいる)が、今回私はそれが理にかなったことだと思えた。そうすることの意味が見えたのだ。
まず、オーケストラの懐の大きさと包容力が、指揮者のアクの強い個性を受け止めながら、うまく収めている。
そしてティーレマン自身も試行錯誤に踏み込まず、方向性を示して流れを作ることに専心している。あのポーズは、確固たる信頼関係の下でひたすら音楽の風向きを捉え、整えるための作法というわけだ。
こうした両者を見て浮かんでくるのは、「成熟」「完成」「極み」といった言葉である。
最高のコンビによるシュトラウス、ワーグナー、ブルックナーの音楽のなんと神々しかったことか。どの曲も美しく調和が取れ、慈愛に満ちている。あたかもステンドグラスから光が差し込む教会の中で演奏を聴いているかのような、暖かい幸福感に包まれた。
たぶんそういう一期一会になるだろうと思い、この日私は仕事を休んだ。このメタモルフォーゼンだけはどうしても聴かなければならなかった。急に仕事が入って遅刻となり、機会を逃すことだけは絶対に避けなければならなかった。人生を賭けた休暇取得だった。
「何を大げさな」と言いたきゃ、どうぞ。私には人生を賭けるものがある。人生を賭けてでも聴きたい音楽がある。
もうないぜ、この曲におけるこれ以上の観賞体験。