2024年11月28日 新国立劇場
ロッシーニ ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)
指揮 大野和士
演出 ヤニス・コッコス
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
ゲジム・ミシュケタ(ギヨーム・テル)、ルネ・バルベラ(アルノール)、須藤慎吾(ワルター・フルスト)、田中大揮(メルクタール)、安井陽子(ジェミー)、妻屋秀和(ゲスレル)、オリガ・ペレチャッコ(マティルデ)、齊藤純子(エドヴィージェ) 他
最初に、本演目のタイトル名について。
息子の頭上のリンゴを見事に射抜くシーンがすごく有名で、みんな何となくそれだけで物語を知った気分になっている「ウィリアム・テル」(笑)。
中世伝説を元に戯曲として完成させたのが、ドイツの劇作家フリードリヒ・フォン・シラー。あの有名な「第9」の「歓喜の歌」の詩を作った人だ。
そのシラーが書き上げた作品のタイトルが「ヴィルヘルム・テル」。ドイツ語人名である。
この「ヴィルヘルム」が英語になって「ウィリアム」になり、フランス語になると「ギヨーム」になる。英語のチャールズがフランス語だとシャルルになり、ドイツ語だとカールになるみたいな感じだ。
この作品をオペラ化したロッシーニは、フランス上演のため、脚本にフランス語を用いた。だから、オペラ作品の正式名称は「ギヨーム・テル」。
新国立は上演作品名「ウィリアム・テル」にしているが、私個人の意見としては「ギヨーム・テル」を本来使うべきだと思う。
ただ、上記のとおりギヨームもウィリアムも同じ人名を表しているので、「ウィリアムを使うのは間違いだ!」などと声高に指摘するつもりは全くない。
気になるのは、「ギヨームじゃ売れない」「誰もが知ってるウィリアム・テルで幅広く関心を呼び込み、チケットを売りたい」みたいな商業的魂胆が裏で見え隠れしていること。なんつうか、姑息というか小賢しいというか・・。
(もし「そうじゃない!」と言うのなら、ならばロッシーニに敬意を払うべきだ!)
さて、その「ギヨーム・テル」。本格的な原語上演として、日本初だそうだ。
ロッシーニが作曲した最後のオペラ、畢生の大作。「ようやく、ついに」であるが、「よくぞやってくれました!」という部分もある。大野先生、ありがとうございます。
鑑賞後の感想。
ロッシーニの音楽の勝利! VIVAロッシーニ!
この作品を「ロッシーニの最高傑作」と持ち上げる人も少なくないが、異論無しだ。とにかく日本でこの作品を聴けたことは大きな喜び。上演機会に乏しい作品だが、こうして聴けば感動する。長大な作品だが、決して冗長、退屈ではない。
と、以上のような感想を抱けたのは、それはもちろん指揮者大野さんの功績が大きいだろう。
旋律を朗々と鳴らし、快活なリズムを刻み、歌手を引き立て、情感が高ぶるような音楽ドラマに仕立て上げた。
歌手が歌う場面によってテンポ設定が自由に動いていたが、大野さんの音楽上のテンポというより、歌手と打ち合わせをしたうえですり寄り、歌いやすいテンポにして合わせたのではなかろうか。あくまでも推測だが、オペラを指揮する上では、これ結構重要なこと。
その大野さんは、頸椎を痛めていて、これから治療に入るのだという。影響が心配されたが、少なくとも出てきた音楽を聴いた限りにおいて、まったく問題を感じなかった。
(自分の席から指揮姿を眺めることが出来なかったので、どのようにタクトを振っていたのかは、分からなかった。)
歌手では、アルノール役のR・バルベラが、軽めでありながら喉を上手に鳴らし、溌剌とした声を響かせていた。
タイトル・ロールのミシュケタは、まあ普通という感じだったけど、開演前に「調子悪いけど頑張ります」のアナウンスがあり、仕方なしか。
ペレチャッコは、何だか印象が変わった。見た目も声も。良いとか悪いとかではないが、ちょっと戸惑い。
そういえば、どうして名前に「マリオッティ」が付いてないのだろうと思ったら、離婚してしまったのですね、あれまぁ・・。
日本人では、エドヴィージェの齊藤さんが良かった。あと、ジェミーの安井さんは役にド・はまり。どうみても少年だった。
演出について。
日本初の本格上演の舞台として、まあこれくらいで良かったのかな、とは思う。
ただし、もしこれを欧州の舞台に上げたら、おそらく厳しく凡庸の烙印を押されるだろう。「現代の視点による新たな発掘、問題提起」という点で、明らかに物足りない。
決して無策だった訳では無い。例えば、天井から吊り下げた矢は、権力の横暴と反旗の印の両方を表していたのだろうし、クライマックスの背景に映し出された廃墟の建物の写真は、まさに戦禍にまみれるパレスチナ・ガザ地区を想起させるもので、警鐘の意味を込めたのだろう。
だが、所詮は暗示的、伏線的なものに過ぎず、主要なテーマになりえなかった。
それでも、繰り返すが、日本での上演ならこの程度で十分なのかもしれない。