2018年5月4日 王立モネ劇場
指揮 アラン・アルティノグリュ
演出 オリヴィエ・ピー
エリック・カトラー(ローエングリン)、インゲラ・ブリンベリ(エルザ)、ガボール・ブレツ(ハインリッヒ)、アンドリュー・フォスター・ウィリアムズ(テルラムント)、エレナ・パンクラトヴァ(オルトルート) 他
私がなぜこう何回もヨーロッパに行くのか、その答えがここにあった。
こういう尖った公演があるからだ。
舞台を制作した演出家も音楽家も、確信に満ち、正々堂々と主張して、観ている人聴いている人に躊躇なくぶつけてくる。私達はそれを正面から受け止め、自分は何を思い、何を感じたのかを再考し、その上で受け入れるかそれとも拒絶するのかを決める。
本場の舞台には、そうした創造の世界、自分の感性に向き合って問い質す機会が存在する。だから、私はヨーロッパに行くのだ。
ピーが示したローエングリンは、夢でもロマンでもなく、リアリズムだった。ドイツが実際に突き進んでいった歴史であり、その結末だった。
急進的な理念のもとで突き進んだ第三帝国独裁主義の興亡を我々に突き付ける。そこに救いはない。あるのは絶望の行く末だ。
ローエングリンは悲劇と言われるが、それでも本来の物語には公国の世継ぎゴットフリートに託される望みが残されている。ピーはこれさえも否定し、最後にゴットフリートの亡骸をエルザとブラバンド公国民に突きつけるのであった。
ただ、ここで興味深い事象が生じる。
実は、音楽がこれとはまったく違う方向を向いていたのだ。
アルティノグリュはバイロイトでもこの演目を指揮しており、きっとそこでこの作品の本質を見つけ出していたのだろう。彼のタクトを見れば、作品の解釈における揺るぎない自信に溢れていることが一目瞭然だった。
音楽と演出の乖離。
一歩間違えば崩壊しかねない危険な綱渡りとも言えるが、本公演ではがっぷり四つに組んだ結果、ワーグナーさえも超えた別次元の音楽劇を見せつけられたような気がした。
もちろんそれを良いとみるか悪いとみるかは、人それぞれだろう。
だが、そもそも劇場側が、観客の多様な感性に期待し、委ねているのだから、プロダクションとしてはこれで成功なのだ。
歌手の中では、オルトルートのパンクラトヴァが本当に見事としか言いようがなく、完璧だった。
もっとも、その結果は鑑賞する前から分っていたことではあったが。
現在の彼女は、ワーグナー・メゾにおいて無くてはならない第一人者に上り詰めたと思う。
特にカトラーは、近年ちょくちょく名前を見かけるようになった。もう一段の成長を遂げて欲しい。
(かつて大根だったA・アントネンコが、揺るぎない絶対歌手に成長したように)
まさにローエングリンの出現のように、である。