クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2023/7/16 ローエングリン

2023年7月16日   バイエルン州立歌劇場
ワーグナー  ローエングリン
指揮  フランソワ・グサヴィエ・ロト
演出  コーネル・ムンドルッツォ
ミカ・カレス(ハインリッヒ王)、クラウス・フロリアン・フォークト(ローエングリン)、ヨハンニ・フォン・オオストラム(エルザ)、ヨハン・ロイター(テルラムント)、アニヤ・カンペ(オルトルート)、エグリス・シリンス(伝令)   他


現代最高のローエングリン歌い、クラウス・フロリアン・フォークト。いったい彼は、この役を何回歌っているのだろう。
初めて歌ったのは2002年ということらしいので(エアフルト劇場)、もうかれこれ20年以上になる。
その間、メト、スカラ座、ウィーン、バイロイト、バーデン・バーデンなど、各地の一流劇場で歌いまくり、評価を確立させて一気に頂点に登り詰めた。容姿も含め、まさに理想のローエングリン。この役では孤高的存在で、他の追従を許さない。

日本でも新国立劇場と東京・春・音楽祭の「ローエングリン」公演のために計3回来日している。
バイエルン州立歌劇場では、前バージョンのR・ジョーンズ演出版に続いて再出演。今回の新演出改定にあたっても、劇場としてはその威信にかけ、彼の出演を押さえることはマストだったに違いない。K・F・Vが歌う・歌わないでは雲泥の差、プロダクションの成否に関わると言っても過言ではないからだ。

一方で、フォークトのローエングリンを聴くということは、我々はもうその歌唱の出来具合について熟知しちゃっていて、安心安定、いわば極上の既製品の仕上がりを再確認するようなもの。その分、新たな発見の期待感は乏しい。素晴らしいことは最初から分かっていて、で、案の定、素晴らしいという結果に落ち着く。

果たしてそれは、良かったことなのか・・・。

つまり、要するに、いつまでもフォークトに頼り続けていて、それでいいのかというヘルデン・テノールの現状下に対する危惧の意味なわけだが・・・。

いや、やめよう。
せっかく最高のローエングリンを目の当たりにしているのに、その感動をわざわざ横に置いて、状況を嘆く必要はない。今、フォークトのローエングリンを聴ける幸せを噛み締めさえすれば、それで十分なのだ。


そもそも出演キャストの目玉がK・F・Vだけに留まらないのが、一流歌劇場バイエルンのさすがなところ。

フォークトと同様、最高級のワーグナー上演に欠かすことの出来ないソプラノ、A・カンペ。
そのパワフルな歌唱と圧倒的存在感は異彩を放ち、「オルトルート役はソプラノなのかメゾなのか」という、どうでもいい枠組みを軽々と超越してしまう。まさにカンペ・ワールド、唯一無二のオルトルート。
眼力を備えた演技力も凄みがある。
冒頭、幕を開けたまま演奏される第一幕前奏曲から彼女は舞台に立っていて、その第一幕で歌う場面は終盤のわずかしかないのに、ずっと威圧的な雰囲気を放ち、舞台に緊迫感を与えている。

日本には、2007年に新国立劇場の「さまよえるオランダ人」ゼンタで来日しているが、あの頃よりも遥かに進化していることは一目瞭然。もう一度日本で、グレードアップしたそのお姿を拝ませてもらうことは出来ないものか・・。


エルザのオオストラムは、昨年の東京・春・音楽祭ローエングリン演奏会式上演にも出演し、鮮やかな印象を残していたが、今回演技を伴ったオペラ上演で、更に輝きを増してきた感じ。
日本で出演キャストが発表された時点で、知名度はそれほどでもなかったと思うが、少なくともエルザに関しては、あっという間にこの役の第一人者にまで駆け上がった印象。格式の高いバイエルンのプレミエキャストに招集されたこと自体が、それを物語っている。
特に今回の演出では、スポットがエルザに当てられ、物語の進行上の鍵を握っていたため、水を得た魚のごとく精彩を放っていた。


もしかしたら、カーテンコールでフォークトと同じくらい、いや、それ以上の喝采を浴びていたかもしれないのが、ハインリッヒ役のM・カレス。
フィンランド出身の俊英。太くて強靭な歌唱。私は既に4月のベルリンでの「指環」で、彼のキラリと光った才能を見抜いていた。これからマッティ・サルミネンの後継として、着実に栄光の道を歩んでいくことだろう。


指揮者F・X・ロト。
自身が創設した「レ・シエクル」でのピリオド楽器演奏で、てっきり古楽の専門家かと思いきや、現代音楽にも精通。
かと思うと、このようなドイツ・ロマン派オペラも手掛けるなど、幅広いレパートリーを持つ多才な指揮者だ。
彼のことを「鬼才」と評する人もいるが、その音楽を聴く限りにおいて、型破りというほどでもなく、あざとく奇を衒っているわけでもなく、ひたすら真摯かつ誠実に音楽に尽くしている印象だ。
ローエングリンにおいては、音楽の流れがスムーズで、ドラマチックな抑揚が備わり、色彩や陰影にも富んでいる。美しく、そしてカッコいいワーグナーだった。


演出について。
オリジナルからかけ離れた舞台装置と衣装。
特に衣装は、群衆を含め、皆一様にトレーナー、運動着のような格好。ただしエルザ一人だけ、少年、悪ガキのような風貌。(第二幕では、実際タバコぷかぷか。)

なんだか全体的な見た目は陳腐だが、そこで「やれやれ」と目を離してはいけない。なぜなら、まさにそこにこそ演出家の意図、狙いがあるはずだから。

私には、読替えによる独自のストーリー仕立てが読み取れる。もちろん、あくまでも個人的な見立てだが。

小さな村社会。閉鎖的なコミュニティの中、やんちゃ者で馴染めず、一人浮いた存在であるエルザ。周囲に受け入れられず、溝が生じ、疎外感に悩む。村人たちも彼女をどう扱っていいのか分からず、困惑状態。
そうした状況下、彼女を更正させようと、コミュニティの中から選ばれたのがローエングリンだった。
人々はローエングリンにエルザを任せ、彼女自身も周囲に受け入れられることに期待感を滲ませるが、オルトルートとテルラムントの横槍もあり、結局その試みは失敗する・・・。

以上のように仮説を立てると、何となく辻褄が合うのだ。

もちろん、実際演出家がそのように設定したのかどうかは定かでない。

こうして見立てのとおり物語が進行し、最後に何らかの結論が提示されるのかと思ったら、クライマックスの場面で、巨大な岩石のようなオブジェが上から降りてきて、いかにも唐突かつ意味不明。

実は、「石」は演出の中で密かに伏線が張られていて、村八分、罰、リンチの際に使用される武器道具になっていたのだが・・・。

それとも、単純に同調やコミュニケーションに対する壁、異質の象徴、ということなのだろうか?
わからん。

演出家に「最後のあれはいったい何ですか?」と尋ねたいところだが、こうした場合、「観た人の想像に任せる」みたいな抽象性がいかにも欧州の演出にありがちなパターン。辻褄や整合性を求めても仕方がない部分もある。

一つ言えるのは、こうした演出上の展開は困惑ではありつつも、少なくとも音楽面に悪影響を及ぼしていないため、演奏に没頭することが出来、その点良かったということだ。ならば、わたし的にはそれで十分、全然オッケー。


最後に、劇場内で見つけた一つの彫像。

まるでローマ皇帝の彫刻美術品のような像、いったい誰かと思ったら、なんとズービン・メータだった。
なにこれ、ウケる~(笑)

この劇場内のロビーには、以前からメータの像はあったが、作り替えられたようだ。
以前のは、ちょっとカリカチュア的に特徴をデフォルメされていた。もしかしてメータ自身が気に入ってなかった??(笑)
知らんけど。

ちなみに、前監督のK・ナガノの彫像も飾られていて、こちらの方も「それでいいの?」って感じ。