クラシック、オペラの粋を極める!

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2016/6/4 新国立 ローエングリン

2016年6月4日  新国立劇場
指揮  飯守泰次郎
演出  マティアス・フォン・シュテークマン
アンドレアス・バウワー(ハインリッヒ国王)、クラウス・フロリアン・フォークト(ローエングリン)、マヌエラ・ウール(エルザ)、ユルゲン・リン(テルラムント)、ペトラ・ラング(オルトルート)、荻原潤(伝令)   他
 
 
爆発的とも言える怒涛のブラヴォーコール。
その大喝采をほぼ独り占めにするフォークト。
聴衆は彼の歌に心酔し、感動し、それこそ手のひらが痛くなるくらい手を叩いて彼を褒め称えている。
このような美しい光景を眺めながら、ふと思った。
現代のクラシック音楽界において、これほど観客が熱狂し、ひれ伏し、圧倒的な賞賛を得る演奏家がいったい何人いるというのだろう・・・。
類まれなる才能を有し、その才能が開花し、舞台芸術愛する人々に認められ、支持される。なんて幸せな人なのだ! しかも、カッコいい(笑)。うらやましすぎる・・。
「オレ、生まれ変わったら、K・F・フォークトになりてえ・・・」
(冗談を口にして、それに対しきちんとウケてくれたIさんとその奥様Mさん、どうもサンキュー。)
 
一流公演を求めて海外にも躊躇なく出掛けているおかげで、私は彼が出演した11もの役を聴いている。ワーグナーに限っても、エリック、ジークムント、ローエングリンワルターを聴いている。
 
そんな中、私は断言したい。ローエングリンこそがベスト、ダントツに素晴らしい、と。
 
ローエングリンという役の性格が彼の声質にピタリと合致している。
おとぎ話特有のロマンチック性、神聖さと人間っぽさの二面性、強さと優しさの二面性。
フォークトの歌は、それらすべてを兼ね備えている。それらすべてを表現できる技術を持っている。
 
異論があることも承知で、あえて言ってしまおう。
おそらく彼は史上最高のローエングリンではなかろうか。
ペーター・ホフマンよりも、ルネ・コロよりも。
 
ということはつまり、本公演に接した我々は、すなわち「伝説」を見たということ。これを幸運と言わずして何と言おう? 高額なギャラを積んだわけでもないのに、4年前に続いてまたしても新国立に来てくれたフォークトには感謝しかない。本当に本当にありがとう。
 
エルザを歌ったM・ウール。
瑞々しく、麗しい歌声。心に直接響く繊細な感情表現。
フォークトへの圧倒的礼賛の影に隠れてしまうが、今回、彼女に惹きつけられ、魅せられた方々も多かったのではないか。そうした方々は「初めて聴いたが、今まで名前を知らなかったが、この人なかなかいいぞ!今後は要チェックだ!」と思ったことだろう。
 
実は私は彼女の「ジークリンデ」、影のない女の「皇后」をドイツで観ていて、その存在を知っていた。秀でた才能を一早く見抜いていた。一流歌手としての資質あり。いわばスター候補生。だけど、日本ではまだまだ無名。
「オレっち知ってるもんね。ボクだけが知っているんだもんね。」
実は内心「うっしっし」だった。
 
それが、ついに公にバレてしまった(笑)。
まあいいです。何の自慢にもなりませんね、はい。
 
オルトルートを歌ったP・ラング。
この人に関しては、歌もさることながら演技、特に表情がすごくて、ぶったまげた。妖術を使う魔女としての怪しさ、悪が前面に出ていて、ホント怖かった。存在感が半端なかった。
今年のバイロイトのイゾルデ、よろしく頼みまっせ。期待してるからね。
あ、それから秋にはジークリンデでもう一回日本に来てくれるんだね。こちらもよろしく!
 
 
演出について。
あまり評判が芳しくないが、あえて着目できるような特長を挙げてみる。
 
忘れがちであるが、この物語は「悲劇」。そのことを強く念押ししたことは良い。
演出家が捉えたその悲劇とは、ローエングリンが去ってしまったことではない。
せっかく生還したのにも関わらず、誰からも祝福されず、一人取り残されるゴットフリート。幼いがゆえに国を統治していく能力もなく、国民からも信頼されておらず、彼自身どうしていいかわからない。姉エルザは、夫を失ってそれどころではない。つまり、ブラバント公国の行く末真っ暗なのだ。そこに焦点を当てたのがまず一つのポイント。
 
なんだか分からない意味不明の舞台装置、オブジェ、衣装も、全体が「エルザの夢の中の世界」だとするなら、合点がいく。
さほどの効果を上げているとは思えなかったが、照明、背景のスクリーン、合唱の動かし方などは、登場人物の心情を表しているものと思われる。主役の歌手に大げさな演技を付けるのではなく、歌や演奏に集中させることに配慮しながら、舞台空間全体で登場人物に迫ろうというアプローチなのだ。
ただし、もう一度言わせてもらうと、それがさほどの効果を上げているとは思えないが・・。
 
第二幕の最後、婚礼のため大聖堂の祭壇に向かう行進の最中、禁問のモチーフが不安げに鳴り響くところでエルザはバタリと倒れてしまう。
この何気ない演技にも、演出家の意図が含まれている気がする。
夫に対する疑惑。謎を抱えたまま不安に苛まされ、このままでは気持ちが落ち着かないという心理状態。
だけど、気を失って倒れてしまったのは、それだけではない。
祭壇への行進のさ中、見守る公国の民たちが口々に歌っているセリフは「ブラバントのエルザ、万歳!」。決して「ブラバントの守護者(すなわちローエングリン)、万歳」ではないのだ。
国民は、エルザに期待している。にもかかわらず、彼女には公女として夫とともにブラバントを率いる決意と覚悟が備わっていない。その責任の重圧に耐えられなかったではないかと思う。
 
特長ではないが、ついでにもう一つコメントしたい。
前回4年前の初演で、エルザ姫の芯の強さというものを私は見て取ることが出来、これも演出上の大きなポイントだと思っていた。
エルザはか弱い女性ではない。第一幕のローエングリンとテルラムントの対決場面では、彼女は堂々とオルトルートと対峙し、女同士の戦いを挑んで睨み合いをする。夫に名前や素性を尋ねるのも、「命を賭してでも、知る権利がある」という確固たる信念に基づくもので、まさに強さの表れである。
それを、前回のエルザ役R・メルベートは演技においてかなり強烈に打ち出していた。
 
ところが今回改めて鑑賞して、M・ウールからはそうした強さがあまり感じられなかった。
 
これはいったいどうしたことか。
てっきり演出上のポイントかと思っていたが、実はその時に演じた歌手メルベートの個人的な役への思い入れだったのではないかという想像が働く。
それとも、コンセプトは前回同様だったが、再演によってうまく伝わらず、なんとなく薄まってしまったのか・・。
そうだとしたら、そこは減点と言わざるを得ない。
 
芸術監督飯守氏によるオーケストラの演奏と音楽全体のリードについては、概ね満足。「日本人の日本人による」という意味において十分立派で素晴らしいと思うが、そういう見方で果たしていいのかという疑問もあって、評価はちょっと難しい。