クラシック、オペラの粋を極める!

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2017/9/8 Bunkamura オテロ

2017年9月8日   Bunkamura ヴェルディオテロ」コンサート形式上演
指揮・演出  アンドレア・バッティストーニ
映像演出  ライゾマティクスリサーチ
フランチェスコ・アニーレ(オテロ)、エレーナ・モシュク(デズデモナ)、イヴァン・インヴェラルディ(イヤーゴ)、ジョン・ハオ(ロドヴィーコ)、髙橋達也(カッシオ)、清水華澄(エミーリア)   他
 
 
バッティストーニ満を持しての「オテロ」。
メディアアートリエーターとして内外から注目を集めているライゾマティクスリサーチ。
 
「両者のコラボレーションと融合がどのような芸術的効果を生み出すのか!?」
 
関心を大いに煽るかのような宣伝告知に誘われて思わずチケットを買ってしまったが、結論を言うと(もちろん個人的な感想なわけだが)、バッティストーニの演奏も、映像の効果も、どちらも「きっとこんな感じになるのでは」という想定の範囲内であった。
 
想定の範囲内」なんて言葉を使用すると、どうしてもネガティブな結論みたいになってしまうけど、別に期待外れだったわけでも悪かったわけでもない。単純に思い描いていたとおりだったということ。
 
初めて聴いて、「日本でこれほどのヴェルディを聴けるのか!?」と驚嘆した2012年二期会ナブッコ」から5年。来日を重ね、彼の音楽を聴き続けているうちに、だんだんと彼の手の内が分かってきた。
バッティストーニの音楽表現とは、心情の表現であり、感情そのもの。そうした内面の変化を大げさなくらい強く打ち出す。演奏する側は揺さぶり、聴く側は揺さぶられる。これがすなわち「イタリアの情熱であり血」なのである。
そういう意味で、愛、嫉妬、コンプレックス、僻み、憎悪がこれでもかというくらい詰まったオテロは、バッティストーニにとって調理し甲斐のある最高の食材だったことだろう。
 
心情表現には、ただカッカと血が上って熱くなるだけでなく、内に秘められた穏やかさや静けさもあるわけで、バッティストーニはそうした部分までもきちんと目を配っている。カバーできる懐が広がっているのは、成長の証。第4幕、静謐さを湛えながら緊張感を持続させる音楽づくりは実に見事だった。
 
 
映像演出について、上に「想定の範囲内」と書いたわけだが、つまりどういうことかというと、「高度な技術を駆使して心象風景の視覚化を映像でやろうとしても、舞台芸術の場では、所詮生で演じている人間を超えることはできない」ということだ。
(ただし、たった一つだけ例外があった。12年前にパリ・オペラ座が制作したP・セラーズ演出の「トリスタンとイゾルデ」。)
 
もちろん、ライゾマティクスリサーチ側だって、「自分たちの映像で音楽を踏み越えてやろう」という邪心はなかっただろうから、結果としては「まあ、良かったんじゃない」で終わり。
 
歌手について。
デズデモナを歌ったモシュクは、ツイッター等でも大絶賛されていたが、まさに彼女がいたからこそ今回の公演は成功だったと言えるだろう。
一方のオテロを歌ったアニーレは・・・ううーーん(笑)。
音楽評論家小田島久恵さんのツイッターによる「ところどころ不調で、ところどころ好調だった」という感想は、まったくの同感、異議なし(笑)。
イヤーゴのインヴェラルディは、おそらく聴く側の好みと脳内の刷り込み具合によってきっと評価が分かれるだろう。私は非常に好感を持った。
日本人では、エミーリアを歌った清水さんの存在感が際立っていた。役にハマっていた。この人、今、国内で活躍するメゾでは、きっとナンバーワンだと思う。