クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2016/8/8 ダナエの愛

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2016年8月8日   ザルツブルク音楽祭   祝祭大劇場
R・シュトラウス   ダナエの愛
指揮  フランツ・ウェルザー・メスト
演出  アルヴィス・ヘルマニス
クラッシミラ・ストヤノヴァ(ダナエ)、トマシュ・コニェチュニー(ユピテル)、ノルベルト・エルンスト(メルクール)、ゲルハルト・ジーゲル(ミダス)、ヴォルフガング・アブリンガー・シュペルハッケ(ポラックス)   他
 
 
ザルツブルクで初演されたダナエの愛を、そのザルツブルクで鑑賞する意義と価値は大きい。そうでなくても、滅多に観ることの出来ないレア作品。これはまたとないビッグチャンスだ。
今回の旅行はもちろんバイロイト音楽祭の観賞が最大の目的であった。ところが、そのバイロイトで指揮者と主役歌手の降板にまみれ、軽く水を差された。
なれば、むしろこちらの方をハイライトにしたい気持ちでいっぱいになる。なぜなら、私は絶対にシュトラウス派なのだから。
 
その期待に最大限応えてくれたのが、ウェルザー=メストとウィーン・フィルの演奏。これぞ究極絶品。驚異的な演奏!!
いったいなんてことだ!前夜の空気の抜けたようなメータとの演奏はなんだったのか!打って変わり、目覚ましいゴージャスなシュトラウスサウンド。感動と興奮の渦が押し寄せた。
 
WMは、まるで水を得た魚のように生き生きとしていた。この人、学者っぽい風貌で、音楽もお行儀が良さそうなイメージだが、鳴っている音はかなりアグレッシブで本能的。このタクトに煽られ、輝きを放つオーケストラの色彩は、キラキラの風に乗って耳に届き、感興のツボを心地よく刺激した。ああ、なんという快感!
 
メストさん、振ってる後ろ姿がなんかとても楽しそうなんだけど。ウィーン国立歌劇場を離れてしまったの、ひょっとして後悔してんじゃないの??(笑)
 
歌手について。
ダナエを歌ったストヤノヴァは、気品のある歌唱。やや抑制的な印象を受けたのだが、ひょっとするとそれは、演出において心情面の描写がダンサーの踊りに委ねられたという視覚的効果のせいかもしれない。
ユピテルのコニェチュニーは、さすがの貫禄の部分と物足りない部分が微妙に入り交ざる。でも、これだってユピテルという役の性格の多面性にこちらが惑わされている可能性もあり、ちょっと断定が難しいところだ。
ミーメを歌ったら世界一のジーゲル。だが、残念ながら今回はミーメじゃなかった。
ミスキャストとは言わないが、この役に相応しいテノールは他にもいたはずだ。なぜジーゲルだったのか。ダナエが選んだのは、絶大な金と権力を持つ求婚者ユピテルではなく、ミダス。ダナエを惹きつけるミダスの魅力が、ジーゲルの歌唱からは伝わってこない。それに、こればっかりは本当に申し訳ないが、腹の出たオッサン風貌は如何ともしがたく、頭を抱えてしまった。
 
演出は、今や世界をリードする演出家ヘルマニス。
舞台をアラビアンナイトの世界に置き、オリエンタルな衣装やターバンをオーバーに強調させて、風刺的カリカチュア的に見せる。
黄金や富の象徴としてポーズを取って踊るダンサーを登場させ、アイロニーや比喩、シンボルを具現化させる。
物語や音楽を注意深く観察すると、ダナエの愛という作品そのものに風刺や比喩、パロディが盛り込まれており、そこをしっかり捉えた演出家の狙いは鋭い。
 
舞台装置としてペルシャ絨毯を置き、あるいは模様をプロジェクションマッピングで映し出すなどして王家の富を象徴させながら、第三幕では、一文無しに突き落とされるダナエを今度はその絨毯を織る末端労働者側に立たせるコントラストも見事と思った。
 
感心するのは、これまでヘルマニスの演出舞台をいくつか観てきて、オリジナリティにも通じる様式、スタイル、手法にすべて異なる展開を見せていることだ。「いかにもヘルマニスらしい」という共通性があまり見当たらないのである。(強いてあげれば、映像を取り入れることか。)
 
つまり、懐が大きく、引き出しが多く、博学聡明で目の付け所が多彩だということ。今のところ、マンネリズムに陥る気配がない。
もちろん、売れっ子演出家なので、消費し尽くされ、そのうちネタ切れの様相を呈する可能性は無きにしも非ずだが・・。
 
差し当たって今年の12月、スカラ座新シーズン開幕公演にまた今年も行きたいなと思っているのだが、演目「蝶々夫人」の演出をするのが、何を隠そうこのヘルマニス。
日本人としてのスピリットが宿る蝶々夫人をどう扱うのかちょっと心配(というか、かなり心配)だが、大いなる興味を持ち、是非見に行きたいと思う。