クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2013/10/14 西部の娘

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2013年10月14日  ウィーン国立歌劇場
プッチーニ  西部の娘
指揮  フランツ・ウェルザー・メスト
演出  マルコ・アルトゥーロ・マレッリ
ニーナ・シュテンメ(ミニー)、トマシュ・コニェチュニー(ジャック・ランス)、ヨナス・カウフマン(ディック・ジョンソン)、ノルベルト・エルンスト(ニック)、パオロ・ルメツ(アシュビー)、ボアス・ダニエル(ソノーラ)   他
 
 
 新演出。ウィーン国立歌劇場今シーズンの目玉の一つである。
 チケットは入手難。そもそも一般販売がされなかったという異常な事態。定期会員(アボナメント)の申込み以外のチケットは、すべてスポンサー、代理店、関係者、VIP、コネ、そして闇へと流れた。以前に書いたとおり、私はキャンセル待ちでひたすらウェイティングしていて、直前ギリギリでようやく入手できたわけである。かなり焦った。
 
 当日に販売される立ち見席の希望者は、開演の6時間前である午後1時の時点でもう50人くらいが並んだり、あるいはポジションを確保したりしていた。早い人は朝から並んでいたに違いない。私自身、もし事前入手が叶わなかったら、この列に加わろうとしていたわけだ。
 
 開演前の劇場内の雰囲気もいつもとは違った。ひやかし観光客、明らかな一見さんがほとんど見られない。
 ま、そりゃそうだろう。そういう人がウジャウジャいたら、怒るでオレ。
 
 こんな事態になってしまったのも、すべてはスーパーテノールJ・カウフマンが出演したからだ。ヨーロッパにおいて、彼の人気は凄まじい。まさにオペラ界のヒーローだ。
 
 私がこの公演に行こうと決めたのは、別にスター歌手に目が眩んだからではない。このオペラが好きなのだ。深い思い入れがあるのだ。
 感情移入の対象は主役の3人ではない。「野郎たち」だ。荒くれ者だがいい奴らで、みんなミニーに心を寄せ、故郷を懐かしく思いながら必死に生きている。最後の場面で、D・ジョンソンを許せばミニーは彼とともに去ってしまい、許さなければミニーを嘆き悲しませる、その葛藤と揺れ動く気持ちに、私はいつも鼻の奥がツンとなってしまう。
 
 今回の公演でも、そうした部分に思いを馳せながら鑑賞しようと思ったのだが・・・無理だった。主役二人の存在があまりにもでか過ぎた。
 
 カウフマンであるが、歌唱そのものは期待以上でも以下でもなかった。彼の歌い方、節回しは十分に知っているが、そのまんまだった。
 だが、とにかく華やかで舞台栄えがする。彼が登場すると、会場全体の熱気が上昇する。まさにスポットライトが当たるのである。演技がうまい。そして、なんといってもカッコイイ。自ずと目が釘付けになってしまうのである。きっと若い頃のドミンゴってこうだったんだろうなと思った。
 
 歌唱において圧倒的な実力を披露したのがシュテンメ。彼女の素晴らしいところは、徹頭徹尾音楽になっていて、絶叫しないこと。声は瑞々しくて美しい。彼女の歌に惚れ惚れと陶酔しながら「ずっと永遠に聴いていたい、このまま時間が止まってほしい」と思った。偉大な歌手である。本当に、本当に、素晴らしい。
 2016年にウィーン国立歌劇場の来日公演が決まっており、ばらの騎士ワルキューレが予定されているが、マルシャリンでもブリュンヒルデでもどちらでもいいから、是非彼女を連れて来てほしい。真剣に、心の底から願います。
 
 この二人に比べると、ジャック・ランスのコニェチュニーは影が薄い。時折り何を歌っているんだか分からないゴニョゴニョした部分もあって、評価が落ちる。ここウィーンでは既に一定の地位を確立させているほどの立派な歌手なのに。やや残念であった。
 
 影が薄かったのは、指揮のF・W・メストも同様だった。カウフマンとシュテンメに完全にお株を奪われた恰好。前日、あれだけ素晴らしい音楽をドライブさせたメストだったのに、いったいどうしたのだろう。それともたまたま聴いた席が悪かったのか。メストは非常に良いオペラ指揮者だと思っているので、今回はたまたまそうだったと思いたい。
 
 演出について。
 いつも安定した手堅い舞台を創るマレッリなので、今回も大胆な読替えはないだろうと思ったが、予想どおり無難なものだった。ただ、最後にミニーとジョンソンが旅立っていく場面で、舞台に巨大な気球が登場し、二人を乗せて上昇させる、という演出はただただ呆れ、絶句してしまった。会場のあちこちから失笑が漏れた。アメリカの劇場だったら大爆笑となっただろう。あれはいったいどういう狙いだったのだろうか。不明である。
 
兎にも角にも、カウフマンとシュテンメに尽きた公演であった。今後レパートリーとして再演し、その際に二人が出演しないとなった時、プロダクションそのものの価値が下がってしまわないか、非常に心配である。