ワーグナー 楽劇トリスタンとイゾルデ(コンサート形式上演)
指揮 シルヴァン・カンブルラン
合唱 新国立劇場合唱団
なんてワクワクする公演だろうか。こういう公演を、私はいつも待ち望んでいる。
指揮者カンブルランの並々ならぬ意欲は、第一幕の前奏曲の演奏だけでひしひしと伝わってきた。読響の常任指揮者に就任して以来、ずっと構想を練り、実現を思い描いていたに違いない。そんな一途の意志が音として聞こえてくる。
それだけにタクトにおける集中力、スコアののめり込み方が尋常ではない。あれだけの渾身で振り続けたら憔悴しきってしまうであろうに、身体から発する熱いエネルギー放射は留まることを知らない。
ワーグナーの音楽そのものは本当に切実で、グッと迫ってくる。死をもってしか叶えられない不実の愛。重々しいドラマの展開に、観賞側も胸苦しくなってくるほどだ。
ところがカンブルランの音楽は、そんな中に希望というか、一筋の光明があるような気がした。死の憧憬、夜の賛美といった音楽であるのにも関わらず、オーケストラの音が不思議と明るいのだ。これこそがカンブルランの解釈するトリスタンとイゾルデなのだろうか。
また、歌手とオーケストラとのバランスもお見事。響きの良いコンサートホールでのオペラ上演は、オーケストラが歌手の声をしばしばかき消してしまう。ところが今回は、歌手の声がとてもクリアに聞こえる。指揮者の入念な仕上げの賜物だろう。
読響の演奏も秀逸だ。演奏の出来栄えを聴いて、あるいは各奏者の演奏ぶりを見て、「気合いが入っているな、しっかり練習してきたな」というのがよく分かる。
不満などまったくないが、あえて欲を言わせていただくなら、本来、歌手が責任を担うべき登場人物の熱情や各場面の情景描写にも、もっとオーケストラが積極関与してもいいのではないかと思った。そこら辺は歌劇場管弦楽団ではない不利さがあったかもしれない。
歌手では、イゾルデのレイチェル・ニコルズが好演。代役だというのに完璧な暗譜で歌い通した。帰宅して調べてみると、今年3月にバーデン州立劇場カールスルーエで同役を舞台で歌っていた。堂々としていたわけが分かった。声は強靭ではないが、透き通って瑞々しい。ブランゲーネ役のマーンケとの声の相性も良く、うっとりするほどだった。
トリスタン役のエリン・ケイヴスは、既存とは違う新たなトリスタンの一面を創出させた。輝かしいヒーロー的な歌唱ではない。見かけはさておき、若い声。若いというより、むしろ「青い」とでも言おうか・・・。
ネガティブっぽい表現で申し訳ないが、「弱い、劣る」というより、そうした歌唱によってトリスタンの未熟さや若さゆえの苦悩などが滲み出てくる。それはそれで「あり」だと思った。
カーテンコールで一番の拍手を得たのが、マルケ王のアッティラ・ユン。この人、成長したなあと思う。そして成熟したなあと思う。シュトゥットガルトの専属歌手だが、国際級ソリストとして飛躍する時期がやってきた感じだ。
最後にもう一度カンブルランと読響。
爆発的な喝采(一人の残念なフラブラを除く)を浴びて、両者は大いなる満足と自信を得たことだろう。これをきっかけとして、オペラのコンサート形式上演をシリーズ化してくれたら、私としてもこんなに嬉しいことはない。