2012年12月21日 ミラノ・スカラ座
指揮 ダニエル・バレンボイム
演出 クラウス・グート
ルネ・パーペ(ハインリッヒ)、ヨナス・カウフマン(ローエングリン)、アニヤ・ハルテロス(エルザ)、エヴェリン・ヘルリツィウス(オルトルート)、トーマス・トマッソン(テルラムント)、ゼリコ・ルチッチ(伝令) 他
正直に告白しよう。私は、スカラ座、というよりイタリアの歌劇場に対して偏見を持っていた。「イタリアでワーグナーを見てもしょーがない。」という偏見。鑑賞したいという気が起こらなかったし、実際、これまで一度も生鑑賞したことがない。「なんでわざわざイタリアにまで行ってワーグナーを聞かねばならないのだ?」である。
歌こそがすべて、オーケストラはあくまでも歌の伴奏という主従関係、平易な旋律、主役がいつもアモーレで苦悩しているアホくさい物語・・・。そういうイタリア・オペラを延々と演奏してきた団体が本物のワーグナーを演奏できるのか?という見下し。ひどいね(笑)。
さらに、私はドイツ系の歌劇場オケとイタリアの歌劇場オケのワーグナー演奏の差異を、いとも簡単に聞き分けられると思った。あたかも、母音を強調させる特有の発音に引きずられた下手クソな英語を聞いて、「こいつはイタリア人だな」と簡単に見破られるかのように。
いや参った。見事に覆された。己を恥じなければならない。
私は本当に驚いた。驚愕唖然だった。
ソリストは全員が外国人だからいいとして、ピット内のスカラ座管弦楽団及び合唱団が奏でたワーグナーは推進力に満ち、揺るぎがなく、強固だった。歌とオーケストラは互角に絡み合い、融合して、ドイツの森のような深淵的な響きを創り出していた。それは本場ドイツでもなかなか味わえない超本格的なワーグナーだった。
そうだ。よく考えてみれば、かつてはフルトヴェングラーやカラヤンもここスカラ座でワーグナーを振っていたのだった。そういう栄光の歴史があったのだ。紛れもなく、スカラ座はワーグナー演奏の脈流を持っていたのである。
今も息づくフルトヴェングラーやカラヤンのスピリットを察したのか、あるいはワーグナーが蘇って乗り移ったのか、バレンボイムの指揮はまるで取り憑かれたかのように鬼気迫っていた。指揮台には椅子が用意されていない。休憩があるとはいえ、4時間の長丁場をバレンボイムは立ちっぱなしで指揮した。このまま最後まで突き進み、演奏が終わったらばったり倒れてしまうのではないだろうかと心配になるくらい、猛然としたタクトだった。
私はバレンボイムのこれほどまでに全身全霊をかけた魂の指揮を見たことがない。狂気。壮絶。凄惨。この音だけでも、今回はるばるミラノに駆けつけた甲斐があったと思う。
クラウス・グートの演出について。彼の演出が一筋縄ではいかないことは重々承知していたが、これほどまでとは!
エルザ、オルトルート、テルラムントの関係については読み取れた。
親を亡くしたエルザはテルラムント伯爵家に引き取られるが、愛情が注がれず、冷たく厳しく虐げられながら育てられる。そのしつけ役がオルトルート。無理やり押し付けられたピアノのレッスンに向かいながら、エルザは目をつぶり、悲惨な環境から救い出してくれるヒーローを夢見る。(少女の夢想であるため、夢に登場するヒーローもまた少年である。)
成長して、またもや殺人嫌疑という恐ろしい仕打ちを仕掛けてくるテルラムントとオルトルートに対し、かつて幼い頃に夢想したヒーローの出現が想起されるエルザ。そこに登場するのがローエングリンというわけなのだが・・・。ここで最大の問題が生じる。
「ローエングリンとは何者なのか?いったい彼はどこから来たのか?」
グートがここにスポットを当てたのは間違いない。このオペラの核心と捉えている。
そもそもこのオペラを上演する際には、演出家は必ずこの問題に直面する。そしてたいていの演出家は、脚本どおりのおとぎ話の英雄にするか、そうでなければエルザの空想上の架空人物に仕立て上げる。
今回のグート演出も、一見すると後者の選択だ。
「エルザの妄想」、「空想人物ゆえの非人間的なローエングリン」と短略的に片付けるのは簡単だろう。だが、本当にそれだけなのだろうか。いや、そんなはずはない。グートはそういう演出家ではない。
私はずっと、ずーーっと、考え続けていた。「このローエングリンは何者なのか?」
裸足。自由奔放に動き回る野生児的な所作。角笛の所持。
つまり、ローエングリンが「誰か」であることは間違いないのだ。
だが、結局私には解らなかった。そして、諦めた。
解らなかったが、「謎に包まれた何者か」として描かれていることを理解しただけで、良しとしようと思った。
いったん演出の話を離れて、歌手について。
錚々たる陣容だ。これだけの超一流スター歌手が揃えば、当たり前だが、舞台は豪華な饗宴に仕上がる。どの歌手も本当に素晴らしかった。
インフルエンザで最初の3回の公演をキャンセルしたA・ハルテロスが復活したのは嬉しいニュースだった。私は以前から彼女を非常に高く評価していて、彼女のエルザを是非聞きたいと思っていたから。病気の影響はまったく感じられない。歌も立派だが、背が高くスラっとした容姿は立ち振舞いが高貴そのもの。ウェディングドレスをまとったハルテロスは眩いほどに美しかった。
E・ヘルリツィウスもすごかった。オルトルート役は通常メゾが歌うことによって、ドスの利いた怨念が際立ち、ソプラノのエルザとの対称性を出させるわけだが、ソプラノの彼女は、氷のように冷たい強靭な声で新たな一面を引き出し、大成功を収めた。
この日の最大のヒーローがヨナス・カウフマンであることは論を俟たない。っていうか、ローエングリン役にカウフマンを得ることが出来たからこそ可能になったプロダクションではなかろうか。彼の絶大な存在感。観ている人を釘付けにさせる演技力と説得力。キャンセルが多く、私も何度も肩透かしを食らっているが、ここは黙って平伏すしかない。何と言っても彼はオペラ界の輝けるスターなのだから。
もちろんハインリッヒ王のパーペの重厚な歌が素晴らしかったのは言わずもがなであった。
以上、ここまでが現地での感想。これ以下は日本に帰ってからのこと。
やはり、どうしても追求せずにはいられなかった。
ローエングリンの謎について。
ネット、ツイッターで検索をかけ、手掛かりを探した。そして、発見した。
複数により言及されていた「カスパー・ハウザー」なる人物の名。
は????
誰?それ?
ウィキペディアから転記させていただく。
カスパー・ハウザー(Kaspar Hauser、1812年4月30日? - 1833年12月17日)は、現在においても未だその正体と背景が不明なままのドイツの孤児。16歳頃に保護されるまで長期に渡り地下の牢獄に閉じ込められていたため、その性質からしばしば野生児に分類される。発見後に教育を施されて言葉を話せるようになり自己の生い立ちを語り出すようになったが、それが明らかになる前に何者かによって殺害された。特異なまでの鋭敏な五感を持っていたことで有名。
27日の公演に馳せ参じたK師匠によると、購入した公演プログラムにこのプロダクションのドラマトゥルギーであるロニー・デイトリッヒの投稿文があり、その中にこれを示唆する言及があるとのことであった。
うーーーーーん・・・。
もう唸るしかないね。
ドイツ人は、今回の演出を見て、「あ、これ、ひょっとしてカスパー・ハウザーじゃね??」と気が付くのであろうか?実に疑問である。
それに、上演はドイツではなくイタリアだぜ!?