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2012/6/16 新国立 ローエングリン

2012年6月16日   新国立劇場
指揮  ペーター・シュナイダー
演出  マティアス・フォン・シュテークマン
ギュンター・グロイスベック(ハインリッヒ)、クラウス・フローリアン・フォークト(ローエングリン)、リカルダ・メルベート(エルザ)、ゲルト・グロホフスキー(テルラムント)、スサネ・レースマーク(オルトルート)、萩原潤(伝令)   他
 
 
 新国立劇場がオープンして15年。以来この劇場に通い続け、ほとんどの演目を観てきた(邦人作品や再演などを除く)が、これほど爆発的なカーテンコールはちょっと記憶がない。
 今や同劇場の伝説と語られる1998年1月のゼッフィレッリの豪華ぶっ飛びアイーダ(クーラとグレギーナ出演)でも、今回ほどではなかった。新国立が世に出した数多くのプロダクションの中には、‘トーキョー・リング’など、話題を振りまいた物もあるし、音楽的に大変秀逸な成果を残した物もあるが、観客がこれほどまでに熱狂したのは空前の事ではないだろうか。センセーショナルとは、まさにこのことだ。新国立劇場は新たな伝説を手に入れた。
 
 思えば、日本オペラ界の悲願だった国立歌劇場がようやく完成し、一連の開幕記念公演の目玉の一つとして大奮発して制作したのが、ローエングリンだった。劇場の鼻息は荒く、リヒャルト・ワーグナーの孫でバイロイトの大ボスであったヴォルフガング・ワーグナーを演出家として招聘したが、これが、ものの見事に大失敗。そりゃあもう、目も当てられないほどのサイテーな舞台だった。
 奇しくもその時の芸術監督(初代)だった畑中良輔氏が先月に亡くなられた。(劇場には遺影の写真が飾られていた。)見事なリベンジを果たしたことを見届けられなかったのは残念だっただろうが、きっと天国で喜んでいることであろう。
  
 今回の成功の要因はいくつかあるが、最大の功労者は指揮者のシュナイダーと、タイトルロールを歌ったフォークトの二人であることは論を俟たない。上に書いた‘爆発的なカーテンコール’は、彼ら二人に向けられたものである。
 
 指揮者ペーター・シュナイダーが名指揮者であることは今さら言う必要などなく、誰もが認めているが、この日は改めてそれを再認識した。何か特別なことをしているわけではない。華麗なタクトで絢爛な音響の渦を作り出すわけでもない。
 では何がスゴいのかというと、彼はスコアの全てを知っていて、舞台上演とは何かということを知っていて、歌手もオーケストラも、そして演出と音楽の融合も、完璧に彼の掌の中で操られているということだろう。演奏において(特にオーケストラ)、いささかの迷いも停滞もなく、淀みなく音楽が流れている。出演者すべてが指揮者に全幅の信頼を寄せているからこその為せる業だ。その信頼は、もちろん彼の豊かな音楽性や長年の経験と知識から来るのもあるだろうが、それよりも人間的な温かさと懐の深さというのが一番に違いない。サッカーでも野球でも、こういう監督がいたらさぞかし強いチームが出来るのだろうな。
 
 そして、ローエングリンを歌ったフォークト。観客は「‘本物’というのは、いかにスゴいのか」ということをまざまざと知ったことだろう。とにかく、もう、何も言えない。「良かった」とか「素晴らしかった」なんて言葉はあまりにも陳腐過ぎる。ただただ首を横に振ってため息をつくばかりである。
 
 私はここで土下座しようと思う。そして自分の音楽素養と才能を見出す見識がいかに薄いかを痛烈に恥じようと思う。
 主に海外の劇場で何度となく彼の歌声を聴いてきたが、そのたぐい稀なる音楽性と発声コントロールの巧みさを認識できず、「フォークトって、なんか甘っとろい歌で、あまり好きじゃないんだよね。」などと発言してきたのだ。どうか「オマエの耳も大したことないのう」と蔑んでくれ。ガクッ。orz
 
 ただ、一つ言わせてもらうと、これまで聴いた諸役(シュテヴァ(イェヌーファ)、ホフマン、エリック、パウル(死の都)、バッコス(ナクソス島のアリアドネ)、ジークムント)よりも、断トツでローエングリンという役が彼の声に適している。と思う。逆に言えば、彼の十八番によってようやく私も真価を見つけられたのだ。
 まあ、何を言っても言い訳にしかならないので、これくらいにして、そんなことよりもとにかくドイツからはるばるやってきた白鳥の騎士を最大級に讃えよう。
 
 演出について。
 他の方のブログの感想記事やネット掲示板などでは、一部不評を買っているものもあったが、私は概ね良かったと思った。
 ロザリエのデザインによるちょっと変わった衣装やオブジェ、背景の電飾などに意味を見出そうとしても仕方がないだろう。神話の世界へのアプローチのために、舞台に抽象性を持たせているだけだ。
 それよりも、私は演出家シュテークマンが強調を施した「エルザの芯の強さ」と、物語が持つ「悲劇性」について大いに着目したい。
 
 演出家は、エルザを「無実の罪を着せられ、夢心地で王子様の出現を心待ちにするお姫様」に仕立てなかった。エルザは夢の世界に逃避するか弱い女性ではなく、あるいは、よくある演出で病的な妄想に苛まれた女性でもなく、罪をなすりつけようとするテルラムントにタイマンを張り、ローエングリンとテルラムントの決闘のさなかで、自分もオルトルートに戦いを挑んでいく強い女性であった。芯の通った気の強い女性であるからこそ、ローエングリンからの理不尽な禁問に対して敢然と歯向かうわけであるし、それを問うとひょっとして今の幸せが壊れるかもしれないと予感しつつ、スジを通すためには命を賭けてでも、そうせずにはいられなかったのである。
 
 エルザの一本気な面は、最終シーンにも表現されていて、行方不明になっていた弟ゴットフリートが姉エルザを見つけて駆け寄り抱きついても、あろうことかその弟を振り払う。わずかな慰めにしかならない弟の存在よりも、自分が招いた責任を全力で負いつつ夫を追い求める。その姿が、この物語の悲劇性をいっそう引き立てていた。
 そして、かわいそうに、一人残された弟ゴットフリートは孤独となり、自分の行末や公国の将来までを背負わせれて頭を抱えてしゃがみこんでしまう。これもまた悲劇。このように捉えれば、今回の演出は十分に意図があったと思う。
 
  こうして、絶賛の嵐の中、幕が閉じられ、2011-12シーズンが終わった。こういう素晴らしい舞台に接すると、我らが新国立劇場の益々の発展を期待したいとつくづく思うのだが、現実は厳しい。今の時点で、来シーズンに「観よう」と思っている演目はたったの2つだけ。新国立劇場よ、これからいったいどこに向かって行くというのだ?