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2016/3/20 フェストターゲ3(ベルリン州立歌劇場)

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2016年3月20日  ベルリン州立歌劇場(フェストターゲ)   シラー劇場
演出  ドミートリ・チェルニャコフ
ヴォルフガング・コッホ(アンフォルタス)、ルネ・パーペ(グルネマンツ)、アンドレアス・シャーガー(パルジファル)、トーマス・トマッソン(クリングゾル)、ワルトラウト・マイヤー(クンドリー)  他
 
 
昨年のフェストターゲで新演出上演されたチェルニャコフ演出のパルジファル。記憶に間違いがなければ、バレンボイムベルリン州立歌劇場によって制作された3つ目のプロダクションである。
強力タッグによる長期安定政権とはいえ、上演困難なワーグナーの大作を3回も作り直してしまう、それが出来てしまうというのがすごい。指揮者の強烈な自信、歌劇場の「ワーグナー上演で世界をリードしよう」という並々ならぬ意欲。
2002年のフェストターゲでは、「ワーグナー主作品全演目一挙上演」という前人未到の離れ業をやってのけた世界でも稀にみる歌劇場。その自信と意欲は伊達ではないということか。
 
私自身、このコンビによるパルジファルを鑑賞するのは、コンサート形式上演だった来日公演を含め、これで5回目。バレンボイムワーグナーはどれもこれも素晴らしいが、個人的にパルジファルの完成度はダントツという認識。究極絶品の扱いなのだ。
 
小ぶりなシラー劇場での音響飽和を考慮してのことだと思うが、オーケストラピットが深い。その効果はてきめんに現れている。あたかも地の底から沸き立つかのようなオーケストラの深遠な響き。
 
前奏曲は、どこまでも続くかのようなフレーズ。「遅い」のではなく「長い」。客席からタクトは見えないが、「1、2、3、4・・」と振って鳴らしているようには全然聞こえない。リズムや拍子、小節といった規則の拘束から解き放たれた音。時間が止まったような、というより、むしろ時間が逆行し、過去へと遡るかのような不思議な感覚。
幕がまだ開かない真っ暗な空間、目隠しをされたまま連れられて行く先は、はたして中世の時代なのだろうか、それとも伝説や神話の世界なのだろうか。
期待と不安が交錯する中、案内人として頼りにできるのは滔々たる音だけ。その音にしがみつくかのように、じっと耳を傾ける。
やがて幕が開き、目の前に光が差し込んだ。アンフォルタスが声を発し、「そうか、我々が導かれたのは、舞台なのだな」とようやく気付いた・・・。
 
オルフェオとエウリディーチェ」もそうだったが、演出によって物語は視覚上進行する。
だが、真にドラマを形成し、動機付けするのは、指揮者バレンボイムが紡ぐ音楽なのである。これはオペラ上演において極めて重要なポイント。
私自身オペラを観る際、演出が何を主張するのか、いつも楽しみにしているし、着目している。だが、上演の成否のカギを音楽が完全に握った場合、視覚上舞台で何が起こっているかはどうでもよくなる。今回のパルジファルはまさにそうだった。(ちなみに、前プロダクションのアイヒンガー演出版でもそうだった。)
 
アンフォルタスがパルジファルを信仰の場に連れて行く間奏の場面、クンドリーのキスによってパルジファルが叡智を悟り、アンフォルタスの苦悩を知った場面、クリングゾルから聖槍を奪い返した場面、聖槍によってアンフォルタスの傷を治癒させる奇跡の場面・・・。
これらドラマを動かす重要な役割を担い、責任を果たしていたのは、常に音楽だった。この時、私の目に浮かんでいたのは、実際にはピットの中にいて見えないバレンボイムのタクトだった。
このところバレンボイムの指揮姿を食い入るようにずっと見続けてきた。その結果、鳴っている音で、彼がそこでどのように振っているか、どんな表情をしているか、手に取るように想像できるようになった。
 
 
出演した歌手は、全員が世界一流のワーグナー歌手。盤石な布陣である。
その中でも特に注目したのが、シャーガーとマイヤーの二人。
シャーガーは、バレンボイムの秘蔵っ子だ。ちょっと前までは秘密兵器だったが、今やヘルデンテノールの切り札にまでなりつつある。2017年のバイロイトパルジファルは彼で決まっているらしい。厚い響きに負けない張りのある声、堂々たる立ち振舞。無知なる野生児から救世主へと変貌する過程の表現力も本当に見事だった。
 
マイヤーはここ数年「もうそろそろ下り坂か?」と言われ続け、そのたびに「まだまだ健在」を実証している。まるでイチロー選手みたいな偉大な歌手だ。
衰えはどうなのかと問われれば、「そりゃ以前と違う」と感じるところはある。
でも、それって果たして衰えなのだろうか。
今と昔が違うのは、そんなの当たり前。「これが今のマイヤーなんだ」と納得し、感心する。ただそれだけでいいと思う。
実際、彼女に対するカーテンコールのブラヴォーはすごかった。ベルリンの聴衆は、バレンボイムワーグナー上演に欠かせなかった彼女の舞台姿をずっと見続け、見守ってきた。ベルリンの街が育てたと言っていい一人の芸術家に対するオマージュは、衰えがどうとか関係なく、永遠に続くだろう。
 
パーペやコッホも素晴らしかったが、特にパーペはあまりにも完璧で、グーの音も出なくて、逆に何も言うことがない。
 
 
演出について。
ドイツの専売特許みたいなレジーテアターだが、今やイタリアからミキエレットが、ノルウェーからヘアハイムが、ラトヴィアからヘルマニスが頭角を現した。潮流は世界へと拡散しつつある。
そんな中、ロシアから出現してきたのがチェルニャコフだ。
 
私は以前にエクサンプロヴァンスで彼のドン・ジョヴァンニを鑑賞したことがあるが、理解不能でお手上げだった。それでも、基本的には「ぱっと思い付き」タイプではなく、物語と音楽を徹底的に研究し、考えに考えて演出するタイプではないかと見ている。
 
今回のパルジファルも、「よく考えぬかれているなあ」と思わず唸る注目すべきポイントがいくつもあった。
特に私が「なるほど」と感心した点が二つ。
一つは、謎めいたクンドリーの献身は、アンフォルタスへの深い愛が元になっているということ。
もう一つは、パルジファルの救済とは、アンフォルタスの傷の治癒だけでなく、クンドリーにかけられた呪いをも解くことであったこと。
クンドリーはキリストを嘲笑したがゆえに安らかなる永眠を許されなかった。その呪いがパルジファルによって解かれた今、彼女はアンフォルタスに愛を捧げる挨拶をし(つまりキスを贈り)、その後、静かに天に昇った。亡骸をパルジファルが抱きかかえて出て行くところで全曲の幕が降りる。
 
清らかなる成仏。満ち足りた平安。神々しいほどの充足を与えていたのは、バレンボイムが引き出した音楽であり、その音楽を創造した天才ワーグナーの楽曲の完成度に他ならなかった。
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