クラシック、オペラの粋を極める!

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2002/4/28 パルジファル

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2002年4月28日  ベルリン州立歌劇場(フェストターゲ)
ワーグナー・チクルスⅡ』
ワーグナー   パルジファル
指揮  ダニエル・バレンボイム
演出  ハリー・クプファー
ロバート・ギャンビルパルジファル)、ジョン・トムリンソン(グルネマンツ)、ファルク・シュトルックマン(アンフォルタス)、ワルトラウト・マイヤー(クンドリー)、ギュンター・フォン・カンネン(クリングゾル)、クワンチュル・ユン(ティトレル)   他


素晴らしい公演を追い求めて日々コンサートに通ったり、海外に出かけたり、ということを続けていると、時に「生涯忘れられない極上の名演」というものに出会う。
頻繁にあることではないが、私にも一生の宝物のような体験が、これまでに何回かある。

この日の「パルジファル」は、まさにそうした公演の一つだ。

それまで、この公演の前まで、私にとって「パルジファル」は、ワーグナーの中でも難解で、掴みどころのない、厄介な作品だった。
「清らかなる愚か者」、「“あの人”を嘲笑してしまったがゆえに、未来永劫罪を背負う」・・・。
なんのこっちゃ全然分からなかった。

無理もない。舞台神聖祝典劇なのだ。信仰に縁遠い人間にとって、この作品の根底にある概念など、そんな簡単に理解できるはずがない。

だが、私はここで作品の本質に触れてしまった。本公演が私に啓示をもたらしたのだ。
あたかも、パルジファルが叡智を得たように・・・。

それは夢のような鑑賞体験だった。今でも「夢」とでしか説明できない瞬間があった。
クライマックスの場面で、パルジファルがアンフォルタスの傷に聖槍をかざした時、感動に打ち震え、嗚咽をこらえながら、私はそこに光が差し込んでくるのを見た。演出上のライティング効果でないことは、絶対に断言できる。

もちろん、それはあくまでも私の心の目に見えただけだ。気のせいということだってあるだろう。
だけどその時、「ああ、これって、いわゆる奇跡なのかもなあ」と思った。

今、改めて、私は思う。
あの現象は、天にいるワーグナーからの祝福だったのではないか。
一挙連続上演を通じてワーグナーの真髄を詳らかにしたバレンボイムの功勲に対する祝福だったのではないか。
そんな気がするし、「そうであった」と思い込んでいる。

バレンボイムが紡いだ音楽は、あたかも大聖堂の中で鳴り響いているかのごとく、巨大かつ壮麗だった。チクルスの最終日ということで、総仕上げという意味合いもあったのだろう。
カーテンコールで、熱狂、総立ちの観客の前に姿を表したバレンボイムの表情は、達成感に満ち、実に誇らしげだった。

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この日、舞台上にもう一人、偉大な人物がいた。神々しさを称えた芸術の美の体現者がいた。

クンドリーを歌ったワルトラウト・マイヤーである。

何という存在感であろうか。
荒くれ者、誘惑する魔性の女、献身的な聖女、という3つの異なるキャラクターを完璧に演じ分け、それぞれに鬼気迫るほど没入していた。
マイヤーって、歌手だよな。歌手ってこんなにも凄い演技が出来るのか?
驚嘆すべきことだったし、にわかには信じられなかった。

彼女が演じたクンドリーを見て、私は初めて気が付いた。
聖槍の奇跡は、アンフォルタスの傷の治癒だけでなく、劫罰を背負わされたクンドリーの恩赦でもあったのだ。ワルトラウト・マイヤーが、それを私に教えてくれた。


本公演が、万人が認める名演だったのかどうかは分からない。
でも、そんなことはどうでもよくて、私にとって神懸かりの演奏だったということだ。

この時の超絶体験をまた味わいたくて、2005年9月、2016年3月と、私はベルリンを再訪した。いずれもバレンボイム指揮のベルリン州立歌劇場「パルジファル」公演で、ニュープロダクションだった。

素晴らしかったことは間違いなく、特に2016年の方は深い感動に包まれた。
しかし、それでもこの2002年の神懸かり演奏の域には到達しなかった。

まあそうだろう。奇跡なんてそんなに簡単に起きるわけがない。
だからこそ奇跡なんだ。

十分である。たった1回でもそういう演奏に立ち会うことが出来たのだから。