指揮 アンドレア・バッティストーニ
演出 ロレンツォ・マリアーニ
並河寿美(レオノーラ)、エクトール・サンドバル(マンリーコ)、上江隼人(ルーナ伯爵)、清水華澄(アズチェーナ)、伊藤純(フェッランド) 他
どうやら二期会には、演出に対し明確な方針があるようだ。
①作品の本質から外れないオーソドック演出
②読替えも辞さない現代演出
③日本人演出家の登用
これらを偏ることなくバランスよく整えながら、公演ラインナップに配置していく。
①や②では海外プロダクションとの提携や貸出を受け、③では単独新制作に挑む。
いいんじゃないか!?これは上演団体としての確固たるポリシーだ。ポリシーがまるで感じられない某団体に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ。
今回のトロヴァトーレは、上記の分類で言えば①に当たる。パルマ・レージョとヴェネツィア・フェニーチェの共同制作の貸出プロダクションとのことだが、そのとおり、まさにイタリアに行けばどこでも見られそうな舞台だ。
情景のわかる背景を設置してイメージを作ったり(今回は月夜)、合唱団を整列させて棒立ちで歌わせたり、といった特徴は「いかにもイタオペ」って感じで、思わず笑ってしまう。
ただし、月夜のシーンという設定は違和感がなくこの物語にとてもよくマッチしていた。単に自然だったのではなく、そこには必然性もが感じ取れた。また、シンプルな舞台には美しさがあり、それが様式としとして備わっていた。
つまりは、演出にはちゃんと狙いがあり、意図があったということ。そして、それが見事にハマったと言えると思う。
三度目があったということは、出演者を含めた上演団体側から芸術上の高い評価を得、強く望まれて招聘されたということに他ならない。東京フィルと同様、二期会はこの若き俊英の才能に託そうとしたのだろう。
確かにバッティストーニ、「この音は他の指揮者ではまず出てこないな」と思う瞬間がある。大振りで切れ味鋭いタクトからは、「ドラマ」が明確に聞こえるのだ。
イタリア・オペラには、恋を燃え上がらせた挙句の果てに「戦い」「狂乱」「死」が待っている。それらはたいていにおいて大袈裟であり、仰々しく、冷静に見ればアホらしい。
でもバッティストーニの音楽を聴くと、それこそがイタリア・オペラの肝であることが分かる。クライマックスでのシンバルの「バシーン!!!」という強烈な鳴り響き。これぞイタリア人の情熱であり、血なのだと。
日本の歌手陣については、よく頑張った。細かい部分で指摘したいこともあったが、賞賛を優先しよう。
レオノーラの並河さんは、歌い出しの頃は波長の長いヴィブラートが気になったが、徐々に気にならなくなり、そうすると澄んだ歌声に魅了されるようになった。ルーナ伯爵の上江さんも、役が身についていて十分にルーナ伯爵であった。アズチェーナの清水さんは、そのスケールの大きさに良い意味で驚いた。
唯一の客演外国人サンドバルは普通だったかなあ。このレベルだったら別に無理して外国人を呼ばなくても日本人でいいんじゃないの?
あ、適当なテノールがいないから、仕方なく外国人を呼んだのか・・・。