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2014/8/15 イル・トロヴァトーレ

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2014年8月15日   ザルツブルク音楽祭    祝祭大劇場
指揮  ダニエレ・ガッティ
演出  アルヴィス・ヘルマニス
アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、マリー・ニコル・ルミュー(アズチェーナ)、フランチェスコ・メーリ(マンリーコ)、プラシド・ドミンゴ(ルーナ伯爵)、リッカルド・ザネラート(フェッランド)   他
 
 
 
 思わずニヤリ。「なるほどー、そうきたか。うまいことやるじゃないか。」
 
 突っ込みどころ満載の奇想天外な物語をどう展開させていくかについては、演出家にとってやっかいな問題だと思う。もちろん奇をてらわず、ありのまま演出にしたって全然構わない。すべてはヴェルディが語ってくれるから。(台本に無理があるにも関わらずトロヴァトーレが名作と数えられるのは、一にも二にも音楽の力による。)
 だが、ヘルマニスはそうしなかった。どうやら創作意欲を相当掻き立てられたようだ。そして、自らの独創的なアイデアを用いて、問題をいとも簡単に解決してしまった。目の付け所は「ナイス!」としか言いようがない。
 
 舞台は現代、古典絵画美術館の展示室。美術鑑賞ツアーの御一行に対し、学芸員がそれぞれの絵画作品の解説を行っている。この学芸員の解説がそのまま「昔々、伯爵家には二人のお坊っちゃんがいて・・」という語りになっている。
 つまりトロヴァトーレの物語は、絵画のモチーフとなった伝説。「あり得ねえだろ」と思わず突っ込みたくなるようなストーリーは、すべて絵の創作の元となったエピソードだというのである。絵画には元々伝説や空想、非現実な世界が描かれることがあり、そうした特殊性を巧みに利用したというわけだ。
 
 また、展示されている絵画は、ラファエロティツィアーノ、ブロンツィーノなどといった本物の巨匠作品を模した物なのだが、例えばマリア、イエスヨハネの聖家族を描いた絵が、兄弟として一緒に生活していたルーナ伯爵とマンリーコの家族(見方によってはアズチェーナ、アズチェーナの本当の子、マンリーコの家族)に見立てられるなど、よく見ると絵の内容と物語に関連性、類似性が伴っているのも特徴。絵を単なる抽象的なお飾りにしていないため、説得力が加わっている。
 
 更に大きな特色は、学芸員たちがそのまま物語の主人公たちにスリップすること。
「この絵の意味は・・・」と説明しながらそのまま絵画の中の世界に入り込んでいき、同時に制服姿から早変わりで中世の衣装を身にまとって、フェッランド、レオノーラ、ルーナ伯爵らに変身していく。その間、壁を動かしたり投射映像を使ったりする舞台技術で、時空を超越させる。すると、絵画作品の中から登場人物が突如現れるように見える。これは実に面白い。
 
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レオノーラのネトレプコ
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 博物館の展示作品が現代に蘇るというアイデアは、どことなく映画「ナイト・ミュージアム」の物語に似てなくもない。別にパクったということもないだろうが。
 
 こうした演出作品では、二役をこなすことになる歌手たちの演技が大きなポイントとなるが、そこらへんは役者が揃った。ドミンゴネトレプコは数々の大舞台を経験しているだけに、演技が本当に上手く、観ている側を物語にどんどんと引き込んでいく。
 
 中でも、ネトレプコが圧巻の存在感を放っていた。もはや彼女は「若くて美人で」という恵まれた素質を武器にしたアイドル歌手ではなくなっている。その演技力に誰もが目を見張り、ひとたび歌えば客席全員が釘付け状態。進化の度合いは凄味さえ帯びている。彼女が出演するかしないかが上演の成否のカギを握る、そんな絶対的女王に辿り着くまでの道のりはもう僅かだ。
 
 もう一人のスーパースター、プラシド・ドミンゴ
 この日、開演前に「体調を崩しているが、出演する決断をしたので、寛大なるご理解を」というクレジットがあったが、大きな崩れもなく、無難に歌い通した。(なんと、この日以降の出演はキャンセルしてしまったらしい。)
 レパートリーをバリトン役に広げ、新たな道を開拓しているドミンゴだが、やはり多少の違和感は否めない。音域において、どうしても低音の響きが薄っぺらくなってしまうのである。
 だが、そうしたウィーク点を考慮しても、彼のチャレンジは称賛に値する。聴く側の許容を広げ、バリトン役でもテノール役でもなく、「ドミンゴのルーナ伯爵」なのだと思えば、十分に受け入れられる。つまりそれは、ドミンゴでしか成し得ない孤高の芸術ということなのだ。
 
 マンリーコを歌ったメーリは、存在感やインパクトにおいては上の二人に叶わなかった印象。だが、もともとメーリは出しゃばらず、音楽に忠実で、誠実な歌唱が売り。メーリらしさは十分に打ち出していたと思う。
 
 ガッティの指揮についてだが、実を言うと特筆すべきコメントが思い浮かばない。舞台上に目と耳が行き過ぎていたため、彼がピットでどのようなコントロールをしていたのか、注意を払うことを忘れていた。
 もっとも、変わったことをしていたらすぐに耳についただろうから、真っ当な音楽作りに終始していたのだろう。
 
 
 ところで話は変わるのであるが、私の座席のちょうど目の前に、二人の日本人が座っていた。一人が40代くらいの男性で、もう一人はもう少し若い女性。ややよそよそしい敬語で話していたので、夫婦でも恋人でもなく、おそらくオペラ鑑賞ツアーの仲間で、たまたまお相席といったところだろうか。
 目の前だったので否が応でも会話が聞こえてきてしまうのだが、休憩中に男性が女性に対して得意気味に語る内容に私は辟易としてしまった。
 
「ウィーンで聴いた◯◯はああでこうで・・そうそう、実はミラノに行った時も△△はああでこうで、それからパリではですねえ・・・・延々・・」
 
女性はひたすら「へえー、そうなんですかー。ああそうですかあ。」と相槌を打つことに終始している。
彼女は相槌を打つしかない。それしか出来ない。
そりゃそうである。彼女はそこに行ったわけでも聴いたわけでもないのだから。「そうですよねー。確かにそうでしたよね。あれは良かったでしたね。」とは決して答えられないのである。
 
そういう一方的な話を延々と聞かされて、果たして彼女は楽しかっただろうか。
私はお気の毒だと思った。
男性の披露話は単なる自慢だ。
せっかく今ここザルツブルクで最高の出演者が集ったオペラを鑑賞しているのに、どうしてその話で盛り上がれないのだろう。今観ているオペラの話だったら、女性ももっと積極的に言葉を綴ることが出来るだろうに。
 
人の振り見て我が振り直せ。私自身、色々な場所に行って色々な物を観ているので、知らず知らずこうしたシチューエーションに陥る可能性が常にある。自慢話を一方的にするのは好きではなく、自分ではしていないつもりでいるが、でもそれはそう思っているだけかもしれない。気をつけなければいけないと思った。