指揮 アンドレア・バッティストーニ
演出 ピエール・ルイジ・サマリターニ エリザベッタ・ブルーサ
今回のような超オーソドックスな演出だと、舞台じゃなくてオーケストラピット内で何が起きているかに集中することができるので、ホントいいよねーー。
・・・とまあ、皮肉たっぷりのコメントである。
この舞台を「美しい」「分かりやすい」「台本どおりで正しい」と見るか、それとも「斬新さに乏しくて面白くない」「物語の本質について演出家が何を考え、どう捉えたのか、よく分からない」と考えるかは、人それぞれ。
演出について、以上っ。
(これ以上踏み込むと、やっかいな「現代演出の功罪や是非」論に発展するので、やめとく。)
今回のプロダクションが、仮に目をみはるような演出だったとしても、結果的に強烈な訴求力によって聴衆の心をガッチリと掴んだのは、指揮者バッティストーニの音楽だったのではないだろうか。彼が本公演で果たした功績はそれくらい大きかった。
オペラ指揮者には、歌手に寄り添い、歌をしっかりと支える役割を果たすタイプもいれば、全体を統制し、歌やオーケストラを総合的な完成像の中に当てはめながらリードしていくタイプもいる。
これはまた、イタリア・オペラにありがちな歌とオーケストラに主従関係が構築されている場合と、ワーグナー楽劇などのように歌といえども音楽の一片として扱われる場合とでも、指揮者の果たす役割も変わってくるので、一概に断じることはできない。
だが、いずれにしてもバッティストーニの場合は、タクトによって音楽に旋風を巻き起こしている。旋風の渦のど真ん中に彼が鎮座している。同時に、音楽によってオペラの核心を詳らかにする傑出した才能がきらめく。その見事さ、鮮やかさは惚れ惚れするほどだ。
前回のナブッコの時もそうだったが、幕が上がる前の序曲演奏で、一瞬にして観客をドラマに引きずり込む。特にリゴレットの場合は序奏が短いのだが、短い中にも厳しく引き締まった音で波乱に満ちた悲劇を暗示させる。これだけで、もうこちらは息が詰まるような金縛り状態に陥ってしまうのである。
登場人物の心情が激しく揺れ動く場面での音楽の高鳴りは、それこそ圧倒的だ。
第二幕でリゴレットが「娘を返せ」と訴える場面、第三幕でジルダが犠牲になるためにスパラフチーレの館に飛び込む場面、バッティストーニは怒涛の勢いで嵐を起こす。獅子奮迅のごとく腕をブンブンと振り回していたその姿を皆さんは見たか?あれは凄かった。ただただ凄かった。
東京フィルがこの若き才能を逃さずがっちりとつかまえて首席客演指揮者に迎えたのは、賢明の至りだ。近い将来、バッティストーニの時代がやってくる。確実に。その先見の明を世界に示すことができたのは大きい。
さて、次に歌手についてであるが・・・。
歌手団体である二期会の公演にも関わらず、こうして出演歌手よりも、まず指揮者の話題(公演によっては演出家になることも)が先に来てしまうのは、主催者としての心中はいかばかりであろうか。
でも、これははっきり言って仕方がないことだと思う。諦めてもらうしかない。タレントの質の桁が違う。
今回、リゴレットを歌った上江さんは十分立派だったと思う。ジルダを歌った佐藤さんも、清楚で、澄んだ歌声でとても好感を持った。マッダレーナの谷口さんも魅惑に満ちていた。他の出演者も全体的にはとても良かった。上級の歌唱だった。
ただし、一言、枕詞が付く。
「日本国内のレベルとしては」
いつか指揮者よりも演出家よりも、「◯◯役を歌った誰々さん」の話題がまず第一に語られるような、そんな世界への躍進を感じさせる歌手の出現を望んでやまない。
今、世界各地の歌劇場では、韓国出身、中国出身の歌手が当たり前のように出演している。一方で日本人はというと、ほとんど見かけない。この悲しい現実が、日本人歌手の現状レベルなのだから。