クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2015/5/16 新国立 椿姫

2015年5月16日   新国立劇場
ヴェルディ  椿姫
指揮  イヴ・アベル
演出  ヴァンサン・ブサール
ベルナルダ・ボブロ(ヴィオレッタ)、アントニオ・ポーリ(アルフレード)、アルフレード・ダザ(ジョルジョ・ジェルモン)、山下牧子(フローラ)   他
 
 
 この作品を観ると、音楽の素晴らしさには惚れ惚れする一方、父ジョルジョ・ジェルモンの存在に対するどうしようもない違和感のせいで、いつも物語に没入することが出来ない。
 この日も、一緒に鑑賞したIさん夫妻に「パパが登場したら、さあ、一緒に突っ込もうぜ。『すべてはオマエのせいだ!』ってね(笑)」などと談笑していた。
 
ところが、鑑賞しているうちに、そんな違和感はいつの間にかどこかへ飛んでいってしまった。まったく気にならなかったのである。
なぜか。
それは、演出家が一人の人生のみに的を絞り、焦点を当てたからだ。
これは「とある女性の生涯」の物語。デュマ・フィスの原作のモデルとなったマリー・デュプレシ。実在したパリ裏社交界の花形女性。「ヴィオレッタ」ではなく「マリー・デュプレシ」として着目したのは、さすがフランス人演出家としての面目躍如と言えるだろう。
 
「その昔、マリー・デュプレシという女性がパリにいました・・・」
あたかも回顧録あるいは伝記のようにストーリーを展開させていく。「当時」を現在進行形の「今」のように伝えるのではなく、「過去」を「過去」として扱う。
「当時、こういう人がいましたけど、今はもう死んでこの世にはいません。」
 こうした「生」と「死」が舞台の中で線引きされながら、物語は進んでいく。華やかな舞踏会も、アルフレードとの儚い恋も、病に冒された苦しみも、すべては死の世界で封印された過去の出来事であり、生きているヴィオレッタの体験ではない。
 
このように解釈すれば、舞台から見えるほとんどの事象に納得がいく。
 
恋人同士なのに見つめ合わず、真正面を見据えるかのような人物の立ち位置。
具現的な小道具を排し、象徴的なオブジェのみで作られた簡素な舞台装置。
暗い照明、鏡を使いながらぼやかしたような背景。
「死」と「現実」との境界線を暗示する紗幕。
そして、臨終を迎えても死なないヴィオレッタ。当然である。ヴィオレッタ、いやデュプレシは、もうとっくに死んでいたのだから。
 
 こうした思慮深い演出は、私にとっては想像する楽しみがあり、知的好奇心が大いに刺激され、よって大きな満足を得られるものである。演出家はこの物語の核心について詳らかにし、この物語を通じて何を表したかったのかを明確に示した。そして、これを観た私達が何かを感じ、何かを考える。これこそが舞台芸術観賞の醍醐味だと思う。少なくとも私は。
 
だが、果たしてすべてのお客さんがそう思うかどうか・・・。
 
 なにもかも失った薄幸の女性が病に倒れ、最後の最後でようやく生への希望が見えたのに、死んでしまう。だから人々はこのオペラを見て涙する。
 だが、このプロダクションで泣けた人はほとんどいないだろう。だって死なないのだから。本当は泣きたかったのに。
 そういう人たちにとっては、ひょっとすると度を超えた現代演出だったのかもしれない。
 
 
 音楽面について言うと、アベルの指揮した音楽がドラマに非常にマッチして素晴らしかった。今回は指揮と演出がフランスチームということで、良いコラボレーションだったと思う。
 
 歌手では、主役のボブロに大きな拍手を。決して大きな声ではないが、まず音程がしっかりしているのが気に入った。演出の意図をよく理解し、動き過ぎず単調になり過ぎず、とても上手にコントロールしていたと思う。
 アルフレードのポーリは、まず声がとてもリリックで美しく、好印象。だが、ポーリ自身まだ若いはずなのに、アルフレードとしての溌剌さが感じられない。もし、「これは青春の物語ではなく、死んだ人間の墓標なのだ。」という演出側の要請に応えた結果の歌唱だとしたら、それはそれで逆にお見事なのだが、実際はどうなのだろうか。是非本人に聞いてみたいところだ。
 
 今回ご一緒したIさんご夫妻も、どうやら観賞を楽しんでいただけた様子で、何より。I君は「自分は舞台で目に見えるところからオペラに入っていく」と語っていた。一方で奥様のMさんは「音楽の美しさが心に入る」と語っていた。
 どちらも正解。どちらもオペラの魅力。それでいいんです。また是非行きましょう!