クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2014/10/8 読響

2014年10月8日  読売日本交響楽団   東京芸術劇場
 
 
 マイ・データベースで調べたところ、私がこれまでにスクロヴァ師匠のコンサートに足を運んだ回数は計15回だった。その一つ一つの公演を思い起こしてみたが、間違いなく今回の公演はそれらを上回るナンバーワンの名演だった。自信を持ってそう言える。
 
 溌剌として希望に満ちたブルックナー。慈愛に包まれた喜びのベートーヴェン。それらは徹頭徹尾スクロヴァチェフスキの音楽だった。
 オーケストラはどこまでも忠実な下僕となり、全体のバランスから細かなフレーズのニュアンスに至るまで、指揮者が描く音楽を俊敏かつ正確に表現しようとする。全身全霊を捧げ、巨匠の音楽に到達すべく奮闘しているのが手に取るように分かった。
 
 つい先日、同じような光景を見た。そして同じような感想をこのブログで書いた。ブロムシュテット指揮のN響公演である。
 
 スクロヴァチェフスキとブロムシュテット
 言うまでもなく現役最古参の長老指揮者だ。二人ともその年齢が信じられないほど矍鑠としていて、椅子を使わずにしっかりと立って指揮をすることも共通している。
 
 以前、私は「長老指揮者は本当に音楽を創造する技術や能力があるのか?」ということに若干の疑問を持っていた。
 指揮者は自ら音を発しない。自分の理想とする音楽をオーケストラに伝達し、演奏してもらわなくてはならない。
 だが、年齢を重ねるに連れ、腕を振る力は落ち、発信される電波は微弱となり、伝達能力は衰える。老骨に鞭打って指揮台に立つ長老の音楽が素晴らしいと感じるのは、実は敬意と尊崇の念の賜物であって、ひょっとしたら我々の勝手な思い込み、気のせいなのではないか。
 
 今の私なら、声を大にして言える。
「長老指揮者には音楽を創造する技術も能力もある。」
 もちろん全員が全員ということではないかもしれないが、巨匠と崇められる人たちは間違いなくそれらを持っている。
 そのことをまざまざと証明しているのが、ほかならぬスクロヴァチェフスキとブロムシュテットのご両人ではないか。この二人の公演に接すれば、この二人が指揮する時のオーケストラの尋常ならぬ集中力を見れば、それはもう誰が何と言おうと間違いないのだ。
 
 
 話を、演奏されたベートーヴェン7番に戻そう。
 上に「慈愛に包まれた喜びの」と書いた。第一楽章冒頭出だしの音節のなんと柔らかく暖かかったことか。その音色は最後まで一貫していた。
 交響曲は、性格の異なるそれぞれの楽章によって様々な変化を見せる。だが、スクロヴァのベト7は、全楽章を通じて色合いが統一されていた。そういう効果を狙ったのかは分からないが、各楽章に間を置かず、アタッカでつなげて演奏した。4つの楽章をバラバラに扱わず、大きな一つの曲として抱擁したのである。その結果が「慈愛に包まれた喜びのベートーヴェン」だった。それは天国にいるのかと錯覚するかのような法悦の演奏だった。