2014年10月11日 新国立劇場
指揮 飯守泰次郎
演出 ハリー・クップファー
エギルス・シリンス(アンフォルタス)、長谷川顯(ティトゥレル)、ジョン・トムリンソン(グルネマンツ)、クリスティアン・フランツ(パルジファル)、ロバート・ボーク(クリングゾル)、エヴェリン・ヘルリツィウス(クンドリー) 他
指揮者の飯守泰次郎氏は、おそらく新国立劇場のオペラ芸術監督に決まった時から、この作品のことが頭にあったに違いない。劇場オープンから17年、ワーグナー作品は、ほとんど上演されない初期の物を除き、パルジファルだけが未舞台化だった。この作品を採り上げることが芸術監督としての最初の使命。彼が真っ先にそう考えただろうことは想像に難くない。
そうした意気込みがひしひしと伝わった演奏だった。こういうのを入魂の演奏というのだろう。飯守氏の知識と経験、それから作品への思い入れが凝縮され、見事に結実したスペシャルな演奏だった。外来を除けば、日本のワーグナー上演史に刻まれるべき特筆公演と言ってもいいのではないだろうか。
ピットから出て来る音が、いつもの東京フィルと明らかに異なった。
もっとも演奏技術レベルだけで言えば、やはり日本のオケの実力域を飛び越えたものではない。本場ドイツでワーグナーを叩きこまれた飯守氏がタクトを振ったからといって、突然急にドイツのオケが発するような分厚い響の塊に変容することはない。
だが、私はピットから立ち上る音を全身で浴びるような感覚を味わった。音を耳ではなく肌で感じるという感覚。「聴く」のではなく、全身の毛穴から取り込み、消化するかのような不思議な感覚。
歌手も、本物のワーグナーを上演するために必要な人材が集まった。よくぞここまで揃えた。これもやっぱり芸術監督の思い入れと意気込み、そして使命なのだ。
そうした精鋭歌手の方々を評するのにこんなこと言うのもちょっとどうかと思うが、私が一番感心したのは、「みんな表情がいい」ということだった。
二つの意味を含んでいる。一つは歌っている時の歌手としての表情がいいこと、もう一つは役になりきっている役としての表情がいいこと、である。
要するに、作曲家、作品、物語、音楽すべてが体に染み込んでいるので、演技をし、そして歌うのに自然体でいられる。強引さやわざとらしさが皆無なのが素晴らしいのだ。
特に、クンドリーを演じたヘルリツィウスが素晴らしい。それぞれの幕ごとに「荒くれ者」「妖艶な誘惑者」「贖罪の聖女」という異なるキャラクターをきっちりと使い分けていたのだが、それを表情一つでやっていたのが印象を強烈にした。
グルネマンツを歌ったトムリンソンについては、ご覧になった皆さんはどういう印象を得ただろうか。
この時以来の来日なので、偉大なバス歌手トムリンソンを今回初めて聴く人も多かったと思う。素晴らしいと感じられたであろうか。
正直に言わせてもらうが、「全盛の頃は、こんなもんじゃなかった。」
舞台を制圧するくらいの重厚な歌唱が彼の持ち味だったのだ。
今を語る際に「過去は良かった」と述べるのは反則であることは十分承知している。それは本当に申し訳ないのだが、やはりそう感じずにはいられなかった。年月というのは残酷である。
演出について。
今回の観賞にあたり、私は事前に1993年に収録されたベルリン州立歌劇場の上演映像(クップファー演出)を見返してみた。(実は現地ベルリンでもこの舞台を鑑賞したことがある。)予習というより、20年を経て演出家の構想やアプローチにどんな変化が現れるかを見届けたいと思ったからだ。
すると、確かに「仏教の影響」という新しい着想が加わっているものの、ディティールの部分で共通していることが非常に多かった。というか、仏教という着想以外は、ほとんど旧演出のミニ改良といった感じすらある。まったく新しい物を作ったのではなく、旧版の発展進化形と言っていいだろう。
ただし、重要な相違点として次のことに気が付いた。
最後、アンフォルタスを静かに天に召させる場面。(そもそも、治癒させるのではなく、天国に送るという演出はクップファーのオリジナル解釈だ。)
旧バージョンでは、聖なる奇跡を起こしてもなおパルジファルは戸惑いに満ち、これで良かったのかという苦悩にまみれながら、グルネマンツとクンドリーに肩を支えられて幕が下りる。
今回の新バージョンでは、パルジファルは今やはっきりと進むべき道を見い出し、羽織っている袈裟を切って他者に分け与えながら、光の道を歩んでいく所で幕が下りた。
つまり、新たな希望の可能性が存在することを「見つけた」ということだ。これがひょっとすると今回のクップファー演出の最大のポイントなのかもしれない。
その「仏教の影響」それ自体については、既に演出家自らがコンセプトについてメディア等で説明しているので、今さら探りを入れる必要はなさそうだ。
苦しみを終わらすための祈り、幸福を見つけるための道。僧侶に導かれて涅槃を目指し、最終的に悟りに達する。白鳥を殺すことを咎めるのも、無益な殺生を禁じる仏の教えの一つだろうし、確かにキリスト教と仏教の融合というのはそれほどの違和感なく、うまく嵌っていたと思う。(ただし、欧米人が何の知識もなくこの舞台を観たら、どうだっただろうか。)
舞台装置について。
電飾で彩られた光の道も目を見張ったが、「メッサー」と呼ばれる槍の尖った先端のような装置は効果を発揮していた。すなわち聖槍の象徴であり、痛みや苦悩の根源である。
このメッサーはベルリンの旧バージョンでも出てくるのだが、今回はそれを時計の針のように回していたのが大きな特徴。私なんかは、これが涅槃や悟りを目指す旅の羅針盤のように見えた。そう解釈することが可能な、演出コンセプトを支える極めて重要な装置だ。
劇場HPのニュースで技術製作担当が舞台の裏側を語ってくれているが、8トンもの重量のメッサーを一点で支える技術が「誰も経験したことがない挑戦」だったらしい。
我々はつい表面だけに目が行ってしまうが、こうした裏方の力強い支えがあってこその名舞台ということであろう。