カルチャー・コングレス・センター コンサートホール
指揮・ピアノ ダニエル・バレンボイム
モーツァルト ピアノ協奏曲第27番
創設されてからそれほど経っていない新しいオケというイメージがあったが、調べてみると、立ち上げからもう15年の歴史と歩みがあるそうだ。
おそらく当初は話題性、それから「中東の若者を応援し、和平のシンボルにしよう」という政治的配慮を各方面から受けながらの活動だったではないかと推測する。
もちろんここまでに至ったのは、巨匠バレンボイムの並々ならぬ献身と尽力の成果であることは言うまでもない。バレンボイムあってこそ。オケの顔にして、絶対的存在。そこらへんは日本のサイトウ・キネンにおける小澤征爾と似ているかもしれない。
サイトウ・キネン、それからルツェルン祝祭管もそうだが、こういう団体は、いずれ「シンボルがいなくなっちゃったらどうするの?」という死活的問題に直面する。カリスマ指揮者は替えが利かない。オケ関係者にとっては想像したくもない問題だろう。
だが、バレンボイムを見る限り、もうしばらくは替えの利かないシンボルの立場を続けていけそうな気配だ。
もちろん先のことは誰も分からないのだが、今のバレンボイムはとにかく健在。年齢の衰え、一切なし。気迫があり、意欲とエネルギーがみなぎっていて、ものすごい熱気とパワー。その元気、最近疲れやすい私に分けてほしい(笑)。
前半のモーツァルトにしても、後半のラヴェルにしても、バレンボイムの音楽はギュッと詰まっていて密度が高い。サラサラしたラヴェルの音楽からすると、ちょっと濃厚な気がしないでもないが、別に嫌な感じはしない。押しも強く、音が勢い良く発散する。まるで水面への衝撃で弾けるしぶきのようだ。もちろん、反応がすこぶる良いこのオケだからこそ。
ラヴェルの管弦楽曲では管楽器のソロが活躍する箇所が多い。一見するとバレンボイムは奏者に自由を与え、方向性をオケに委ねているかのよう。ボレロなんか完全にタクトを降ろし、指揮台の支え手すりにもたれかかって「どうぞご自由に」みたいな態度。
だが、これははっきり言ってポーズだろう。あるいは「リハで十分に叩き込んだから、あとはその通りやってくれればいいんだよ」みたいなメッセージか。
オケのソロ奏者たちは正直で、そんな時でもしっかりバレンボイムの目を覗っているし、バレンボイムも、委ねたようなポーズを取っているけど、実は鋭い目で自分が欲しい音を求めている。おそらくちょっとでも緩慢に吹こうものなら、降ろしていたタクトを途端に振りかざして、気合を注入することだろう。
指揮者とオケのこうしたやりとりを目の当たりにするのは楽しい。バレンボイムはいつまでも元気で健在で活躍してほしい。
よろしければW・E・D・Oと来日してくれないかな。こういうオーケストラが存在することをもっと多くの日本のファンに知ってほしい。
あ、でも現代曲はお願いだから勘弁してね(笑)。