クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2014/10/30 二人のフォスカリ

2014年10月30日   ロイヤル・オペラ・ハウス
ヴェルディ  二人のフォスカリ
指揮  レナート・バルサドンナ
演出  タッデウス・シュトラスバーガー
プラシド・ドミンゴ(フランチェスコ・フォスカリ)、フランチェスコ・メーリ(ヤコポ・フォスカリ)、マリア・アグレスタ(ルクレツィア)、マウリツィオ・ムラーロ(ロレンダーノ)   他
 
 
 指揮者パッパーノ降板に伴う歌手の連鎖キャンセル不安は杞憂だった。ドミンゴとメーリの両看板がバッチリ揃い踏み。これに進境著しいアグレスタ、ベテランの職人歌手ムラーロが加わって、万全のキャスト態勢に思わずニンマリ。なんだかんだ言っても一流歌手が出演するオペラを観るのは楽しいし、わくわくするわけですなあ。
 
 ドミンゴとメーリと言えば、8月のザルツブルク音楽祭でもイル・トロヴァトーレで共演していた。ひょっとしてメーリ君は御大ドミンゴに気に入られたか?
 そのザルツでは、このお二人さんよりもどちらかと言うとネトレプコの方が輝いていて、別に影が薄かったとは言わないけど、印象としては彼女の引立て役に回っていた感じだった。
 今回のコヴェント・ガーデンでは、その女王様は不在。「今度こそ主役はオレだ」と俄然力が入ったわけでもないだろうが、ドミンゴ、メーリ共に出色の出来。歌と演技の両方で圧倒的な存在感を見せつけ、観客のハートの鷲掴みに成功した。
 特にドミンゴはすごかった。私も含め、すべてのお客さんが改めて思い知ったことだろう。
彼こそオペラ界の「The Legend」だと。彼の舞台姿を拝むことは、すなわちオペラ上演史の生き証人になることだと。
 
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 今回、役が良かったと思う。フランチェスコ・フォスカリは、総督でありながら画策によって隠居を迫られる哀れな老人であり、なおかつ父の立場と公職の立場の狭間で一人の人間として苦悩を抱えている。こうした役は、年齢的にも容姿的にも現在のドミンゴにピッタリの適任であり、豊富なキャリアと熟練の歌唱技術により、味のあるフォスカリを歌い演じていた。本当にさすがだと思った。
 また、テノールバリトンを歌うことの違和感もまったく気にならなかった。もはやドミンゴテノールとかバリトンとかいう音域カテゴリーを超越してしまっているのである。
 
 それにしてもドミンゴは賢い。愛だの戦いだのと血気盛んな若者役が多いテノールを卒業し、バリトン役にチャレンジすることで、より人間的な渋さを醸し出す大人の役を手に入れることに成功したのだから。
 新たな境地を掴んだレジェンドはいったいどこまで突き進むつもりなのだろうか。
 
 アグレスタは、上で進境著しいと書いたとおり、このところ一流歌劇場にどんどん出演して、その評価と人気はうなぎのぼり。
 彼女は2年前に来日を果たしていて、既に日本で歌声を披露している。その時の「今、世界でも最も注目されるソプラノ歌手の一人」というキャッチコピーからは、いかにも商業的ないかがわしさが感じられたものだが、どうやら偽りではなかったようだ。
 私の率直な感想としては、「少々荒削りだな」というもの。でも大型歌手であることは間違いない。おそらく今後も彼女が出演するオペラを観る機会はあるだろう。その時に更なる成長が見つけられればいい。
 
 
 演出について。
 個人的な意見だが、このオペラの上演成功の鍵は、実は演出にあるんじゃないかと思っている。なぜなら、物語に起伏がなく、個々の登場人物の揺れ動く心情に見るべき点はあるものの、全体としては動きに乏しい、はっきり言っちゃえば面白くないストーリーだからだ。
 それが証拠に、この作品はほとんど上演されないレア演目である。別にヴェルディの音楽が劣っているわけではなく、上演しても舞台として見栄えがしないというのがぶっちゃけた理由なんだろうと思う。
 私も三種類のライブ映像ソフトを持っているが、いずれも演出的に平凡で退屈。こんなんじゃ、コンサート形式上演で十分じゃないかとさえ思った。上演成功の鍵を演出が握っているというのは、そうした理由だ。
 
 コヴェント・ガーデンのプロダクションは、結論から言うと、良かった。起伏の変化を生じさせ、十分な見栄えがあった。
 
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 具体的には、ヤコポを含む犯罪人が収容されている陰湿な地下牢をメインの舞台にし、そこで行われる拷問などの仕打ちに焦点を当てたことが大きな特色。
 すなわち中世において、法という絶対的権限の下、それに背いた犯罪人には容赦ない仕打ちが待ち受けているという実態をつまびらかにしているのだ。
 
 これによって正義と悪、地上と地下、明と暗、天国と地獄の対比構造がクローズアップされる。
 
 おそらく犯罪人の中には、今回のヤコポのように無実の罪に貶められたり、正しいことを正しいと言ったがゆえに利害人の反感を買って地下に突き落とされた人も少なからず存在したに違いない。
 それらはすべて「法」の犠牲なわけであるが、いったいこうした法のどこが正義だというのか。
 このようにして、理不尽、無慈悲、弊害の根源として、法を作った貴族という特権階級の存在を徐々に浮き彫りにしていく。結局フォスカリ家は彼らによって崩壊を余儀なくされた。演出家ストラスベルガーは、まさにその過程を描いたわけだ。見事な演出である。