クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2014/5/20 ローマ歌劇場 ナブッコ

2014年5月20日   ローマ歌劇場   東京文化会館
演出  ジャン・ポール・スカルピッタ
ルカ・サルシ(ナブッコ)、アントニオ・ポーリ(イズマエーレ)、ドミートリ・ベロセルスキー(ザッカーリア)、タチアナ・セルジャン(アビガイッレ)、ソニア・ガナッシ(フェネーナ)   他
 
 
 自己主張をしない演出、動きが少ない中で客席に向かってまっすぐに歌う合唱・・・。
 近年のオペラ上演の傾向からすると、古色蒼然としか言いようがない舞台の光景を眺めながら、私は思いを巡らせていた。
 
 こうした舞台は1980年代くらいまでは真っ当、正統だったはず。オペラは音楽というのが通説であり、物語を通じて、上演を通じて、音楽を聴き、歌を聴くというのがノーマルなオペラ鑑賞方法だったからだ。
 
 時代は変わっていく。
 ドイツを中心に、現代においてそのオペラを上演する意義を問おうとする潮流が始まった。演出において新たな視点や解釈が求められるようになり、結果として時代や場所を読み替えるなどの独自展開が繰り出されるようになる。劇場は創作実験の場と化し、ついには単なる斬新さや話題性だけを追求して暴走する演出家も出現するようになった。
 
 傾向は徐々にイタリアにも波及していく。天下のスカラ座でさえももはやその流れに抗うことができなくなった。前衛的な演出家を招くようになり、それに連動するかのように指揮者(音楽監督を含む)も歌手もどんどんとインターナショナル化していった。
スカラ座は『世界最高の歌劇場』を目指し、その代償として『イタリア・オペラの総本山』の誇りを投げ捨てているのではないか?」
 思わずそう勘ぐってしまうのは、私だけではないだろう。
 
 そんな中、ただ一人、孤軍奮闘、イタリア・オペラ伝統の牙城を命を懸けてでも守ろうとしている人がいる。音楽を踏み台にしようとする演出主義に異議を唱え、敢然と音楽優先を貫き通す信念の芸術家がローマに君臨している。
 この日、東京文化会館でタクトを振ったマエストロ、リッカルド・ムーティである。
 
 彼には確固たる識見があり、揺るぎない自信がある。
「イタリア・オペラとは何なのか」「イタリアで脈々と受け継がれるオペラの伝統とは何なのか」そして「ヴェルディの演奏とは何なのか」。
 
 ムーティナブッコを聴いて、なんだか上で「古色蒼然」と書いたこのプロダクションこそが「真実」であるかのように思えてしまった。
 更に。
 トスカニーニ、セラフィン、サバタ、ガヴァッツェーニ・・・かつてイタリアには、こうした伝説の指揮者のタクトの下で音楽を聴き、歌手の歌を聴くという黄金時代が確かに存在した。あの時代の舞台を見ることはもう叶わないが、その時に劇場で繰り広げられていたのは、ひょっとしたらこの日のような舞台だったのではなかろうか。
 ムーティの音楽は、そうしたいにしえの栄光さえも想起させるものだった。
 
 私にはマエストロの声が聞こえる。
「すべてはスコアに書いてある。演出に頼らなくても音楽で語ることが出来るし、また、そうしなければならない。それこそが私の使命なのだ。指揮者はそのために存在するのだ。」
 
 事実、ムーティはすべてを自らの音楽で表現していた。
 ヴェルディの音楽用法、時代と様式、物語の展開、登場人物の心情、作品の本質。
 故に、今回のプロダクションにおいて、私はまったく退屈することがなかった。おそらく指揮者がムーティでなかったら、きっと私は今回の演出について「いったい何が言いたかったのか」などと噛み付いていたことだろう。
 それどころか、これまでヴェルディの若気の至りによる一種の青臭さを感じていた「ナブッコ」の作風についても、必然性を聞き取ることが出来た。マエストロムーティの音楽に接したことで、初めて理解できた部分があったのである。
 
 そんなことを漠然と考えていたら、ふと頭によぎった。
「オペラにおいて演出が独り歩きするようになってしまったのは、ひょっとすると、音楽ですべてを表現することが出来、演出面も含めて上演を統率することが出来、そのすべての責任を担うことが出来る有能な指揮者が枯渇してしまったからではないか。」
 
 もちろんそんな単純な問題ではないかもしれないが、もしそれが要因の一つだというのなら、ムーティはオペラにおいてそれこそ最後の砦となる絶対的存在と言えるかもしれない。
 
 
 歌手について、ごく簡単に。
 ザッカーリアのベロセルスキー、アビガイッレのセルジャン、それからイズマエーレのポーリの3人は、3年前のザルツブルク音楽祭ムーティが指揮したマクベスに揃って出演していた。(ベロセルスキーがバンクォー、セルジャンがマクベス夫人、ポーリがマルコム)
 つまり、いずれもマエストロのお眼鏡に適った、お墨付きをもらった歌手たちだったということだ。これに定評のあるサルシとガナッシが加わって、布陣は盤石となった。
 特に、朗々とした歌声を場内に響かせ、カンタービレの美しさを体現したベロセルスキーは素晴らしかった。
 タイトルロールのサルシは、後半に向かうに連れてどんどんと歌唱に磨きがかかっていった。つまり、独裁者としての制圧的な歌よりも、父として苦悩する人間的な一面に魅力を発揮させた、見事な歌唱だったということだろう。