2014年5月31日 ローマ歌劇場
指揮 リッカルド・ムーティ
演出 エイドリアン・ノーブル
今年の国内クラシック音楽公演の白眉になる上演だったと確信する。
それだけではない。ヴェルディ・オペラ上演において、これほど満足度が高かった公演は久しぶりだった。個々の歌手の出来など細かい面はさておき、総合的には昨年のスカラ座よりも満足度は遥かに上。近年稀に見る極上の演奏だったと思う。
それにしても驚いた。ローマ歌劇場がこれほどまでにハイグレードな上演を果たすとは。
過去にも来日公演を観に行ったことがあるし、現地公演にも行ったことがあるが、はっきり言ってそれほど大したことはなかった。歌劇場の格としては中の上。ボローニャやナポリ、トリノなどにも劣るのではないかとみていた。
もし今回のような上質レベルを保つことが出来るのなら、イタリアのトップ歌劇場として他をリードし、栄光を謳歌することも夢ではない。本物のヴェルディを聴きたいのなら、目指すは永遠の都。北ではない。ミラノよ、今こそ殿堂の座をローマに明け渡すがよい。
これは一人の人物の登壇によって成し遂げられたのだ。かようにも指揮者が果たした役割は大きいのだ。偉大な音楽家が及ぼした影響は計り知れないのだ。
彼の存在はとてつもなく大きい。
ローマにおいても、イタリアにおいても、そして世界においても。
ムーティこそ、天上で永遠の眠りについている偉大な作曲家ヴェルディを目覚まし、その魂を地上に呼び戻すことが出来る現存唯一の指揮者だ。ヴェルディはムーティによって蘇る。我々はムーティのタクトを通じて、降臨したヴェルディの声を賜ることが出来るのである。これを奇跡と言わずして何と言おう。
音だけではない。休符にさえも意味がある。必然性がある。
どうしてそう言えるのか。
私ははっきりと分かった。言葉(イタリア語)と密接に関わっているからだ。音楽が言葉を導き出し、言葉が音楽を導き出している。ヴェルディ・オペラの根幹は、つまりイタリア語なのだ。
音を支配しながら、同時に言葉の存在と意義についても我々に認識させる。そういうことが出来る指揮者も、もう現存ではムーティしかいないのである。
現存ではムーティしかいない・・・なんてことだ。
休憩中、私は師匠であるKさんと話し合った。
ムーティの後継者はいないのか。
師匠は言った。シャイー、ルイージ、ガッティ・・・。
彼らの才能に疑いの余地はない。素晴らしい音楽を聴かせてくれる偉大な指揮者だろう。
この日、本当に素晴らしい演奏に巡り会えたのに、めちゃくちゃ感動したのに、それなのにこんなことが頭の中を巡り、危惧し、憂いている私は、どうかしているのであろうか・・。