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2014/3/20 影のない女

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2014年3月20日  ロイヤル・オペラ・ハウス
指揮  セミョン・ビシュコフ
演出  クラウス・グート
ヨハン・ボータ(皇帝)、エミリー・マギー(皇后)、ミヒャエラ・シュスター(乳母)、エレナ・パンクラトヴァ(バラックの妻)、ヨハン・ロイター(バラック)、アシュリー・ホランド(使者)   他
 
 
 やはりというか、グートの演出は一筋縄ではいかなかった。非常に哲学的で複雑である。
 筋書きどおりのメルヘンチックな演出にならないことは最初から分かっている。だが、ただ時代や場所を移すといった単純な読替えには決してならないゆえ、その意図が一見して理解できる部分と理解できない部分がどうしても発生する。こうなると、もはや凡人の思考の限界だ。
 
 ただし、グートの場合、某ドイツ出身の演出家のように音楽を踏み台にしてでも自らの過激な主張を押し通すことはしない。なので、たとえ見た目で理解不能に陥ったとしても、そこに深く立ち留まる必要がないのは、普通の観客にとってありがたいことだ。
 そもそも読み解きばかりに夢中になっていては本末転倒もいいところ。少なくとも音楽的に何らかのインパクトや相乗効果が確認できるので、それで良しである。
 
 ということで、舞台には様々な仕掛けが放たれていたのだが、私なりに見えたことだけを鍵にしながら総括的にまとめると、以下のようになる。
 
 物語は皇后の夢の中で展開される。ただし、安眠の中で心地よく見る楽しい夢ではなく、病に伏し、高熱にうなされ、激しく寝返りをうちながら脳内に渦巻く幻覚の世界である。
 
 2011年のザルツブルク音楽祭上演におけるクリストフ・ロイ演出もそうだったが、物語を現代社会に置き換えてその意義を問おうとする昨今の先鋭演出家にとって、霊界と地上の人間界を行き来するお伽話を舞台化するためには、解決策としてはもはや夢や妄想、幻覚に頼るしか方法はない。そういう意味で、やや行き詰まり感がしないでもない。
 無理せず、素直にお伽話にしちゃえばいいのにと思う。でも、きっと演出家にとっては譲れない生命線なんだろうね。
 
 乳母や使者は、そうした苦しみの地獄からやってきた悪魔の使いであるかのように、背中に黒い羽をまとっている。ザルツブルク音楽祭で演出したコシ・ファン・トゥッテでデスピーナとドン・アルフォンソに着せた黒い羽とまったく一緒だ。コンセプトは同じであろう。
 
 バラックの妻は、皇后の幻覚の中に登場するもう一人の自分ということになっている。皇后はバラックの妻を通じて自分自身を見つめているというわけだ。皇后の苦悩はすなわちバラックの妻の苦悩。離れたところで客観的に見る自分と、表裏一体の不可分として主観的に見る自分を端的に描き分けながら、二人の自分が決断し、試練を乗り越え、そして克服する。これこそが今回のグート演出の最大のポイントである。
 
 夫婦愛の象徴として、あるいは子供を身籠ることの暗示として、最後にバラックの妻に待望の影が出現する。その場面で皇后はバラックの妻の足元で地に伏し、そして自ら影となった。切っても切れないもう一人の自分、それが影というわけだ。この場面こそが演出上のハイライトだったと言えよう。
 
 こうしてみると、「さすがはグート、世界最高の演出家の一人と評されるだけある」と言いたいところ・・なのだが・・。
 登場人物のうちの二人を「表裏一体の自分」に仕立て上げるこの演出手法は、実はグートの得意技だ。つまり過去の使い回しネタである。
 2003年のバイロイト音楽祭における「さまよえるオランダ人」の演出で、グートはオランダ人とダーラント船長を瓜二つにさせたし、私自身が2008年にチューリッヒ歌劇場で観た「トリスタンとイゾルデ」でも、イゾルデとブランゲーネの関係を今回と全く同じように扱っていた。
 
 そうなってくると、ちょっとなあ・・・。こっちは目からウロコの新解釈を期待しているわけでさ。
 個性や持ち味、流儀を発揮しつつ、常に斬新な解釈を提供するというのはものすごく難しいのであろうが、ついつい身勝手な観客はそれを望んでしまうわけだ。
 
 二組のカップルが見事に試練を克服し、夫婦愛を取り戻して子供を授かるというハッピーエンドを迎えた後、皇后は眠りから目覚める。悪夢が過ぎ去り、病の峠を越し回復して、まるで何事もなかったかのようにベッドからすっきりと起き上がり、健やかな朝を迎えるというジ・エンドは、「なんじゃそりゃ?」という拍子抜け(笑)。おいおい、最後の最後でウケを狙ったのか?笑わせるところだったのか?
 
 笑わせようとしても、それは無理な注文だぞ。なぜならこっちはR・シュトラウスの壮麗な音楽に完全に飲み込まれ、感動にまみれて失神寸前状態だったからね。
このオペラ、特に第三幕、少なくとも私の場合、涙なしで聴き続けることが出来ない。
なんという音楽!! 素晴らしすぎる!!
クライマックスでは毎度心臓の鼓動が高鳴り、身体が震え、やがて涙腺が決壊してしまう。
私にとって、やがていつの日かこの世を去ることとなり天国の階段を登る際、その時に必ず持参したい音楽、それが影のない女なのだ。
目を真っ赤にしてボロボロ状態の私を隣で目撃したKくんよ、驚いたかい? そういうことなのだ。許せ。
 
 
 歌手について。
 皇帝役のボータと皇后役のマギーが最高の出来だ。特にボータは素晴らしかった。叙情的に歌うところと力強く歌うところを巧みに歌い分けていたが、そのどちらも美しく鳴り響いて聴衆の心を打った。
 バラックの妻役のパンクラトヴァは初めて聴いたのだが、安定感があり、完全にこの役を物にしていた。それもそのはずで、昨年12月にバイエルン州立歌劇場のニュープロダクションで同役に大抜擢されていた。このミュンヘン版のプレミエにはボータも参加していて、二人は十分に歌いこなしていたというわけだ。
 
 指揮のビシュコフは、オレがオレがとしゃしゃり出ることなく、ひたすら舞台を支える縁の下の力持ちに徹しながら、地道に音楽の流れというものを作っていた。それがとても良く、功を奏したと思う。
 一見(一聴)すると、裏方に徹したかのような指揮だったが、カーテンコールではそのビシュコフに対してかなり盛大にブラヴォーがかかった。もちろん一流指揮者の知名度というのもあるだろうが、ロンドンのお客さんの耳の確かさに改めて感心した。音楽なんか知らず、社交に来ているセレブどもが多い劇場なのかと思っていたよ(笑)。