2013年10月19日 新国立劇場
指揮 ピエトロ・リッツォ
演出 アンドレアス・クリーゲンブルク
あちこちから「演出が良くない」という評判を耳にしていたが、実際に観てみたら、全然悪くない。
良くないと思った人は、いったい何が気に入らなかったのだろう?時代を現代に移し場所をホテルのロビーに置き換えてしまったことか、それとも下着姿の娼婦らしき女性をウロウロさせたり、そうした女性をいたぶったりする演出がやり過ぎと感じたのか・・・。
「過激」という意見も一部に出たようだが、ドイツを中心としたレジーテアターの前衛演出に比べれば、全然大したことない。この程度で過激だというのなら、それはあまりにもナイーブというもの。
娼婦らしき女性の登場と扱いについて、なるほど確かに目障りかもしれない。だが、それに目を背け、「良くない」と即断してしまったら、この演出の本質が見えなくなってしまう。
なぜホテルなのか? なぜ娼婦が登場するのか?
考えを巡らす必要がある。
なぜなら、演出家は‘あえて’そうしているからである。
改めてリゴレットの物語を思い起こしてほしい。この物語でいったい何が起きている?
金と地位と特権に物を言わせた酒池肉林パーティ、次々と女性を手篭めにしてはポイ捨てにする貴族。
更には、嘲笑、恨み、呪い、騙し、誘拐、殺人・・・。
成金趣味的な豪勢さと、その影に潜む闇の悪事。それはまさにマフィアの世界。
世の中には表の社会と裏の社会、搾取する人間と搾取される人間が存在する。そうした二重構造の縮図の場所として、演出家はホテルに目を付けた。オープンなロビー、窺い知れない客室ドアの向こう側・・・。
そこはまた、売春商売を取り仕切るマフィアが娼婦を送り込む先でもある。金に物を言わせて買う男ども、商売道具に堕ちた女ども、そのパイプ役となって暗躍するマフィア。
演出家は物語を徹底的に読み込んだ結果、こうした社会の裏側に辿り着き、そこに焦点を当てようとしたのである。
元々リゴレットは、公安当局の検閲を受け、内容変更の圧力をかけられるほどの問題作であった。原作の中には、おそらく放蕩三昧の貴族に対する批判精神が込められていたであろうし、その精神は今回の演出でも伝授されていたと思う。
それは確かに我々にとって見たくもない代物だったかもしれない。だが、演出家の洞察はしっかりと受け止めたい。であるが故に、私はこの演出を是とする。
歌手について。
だが、カーテンコールでもっともっと盛大にブラヴォーが飛び交うと思ったら、意外とおとなしかった。なぜ? やっぱり演出のせいでシラケちゃったのかしら?? だとしたらちょっとお気の毒。