4月のフェニーチェ歌劇場公演に続き、またまた名古屋に行っちゃいました。
一度行ってみて分かったことだが、名古屋までの遠征は決して大変ではない。東京では聴けない公演がそこにある時、あるいは東京公演がどうしても都合が合わない時などは、名古屋に行くというのはアリである。
とはいえ、それなりに交通費がかかるのも事実。はたしてこの蝶々夫人がそれに見合うものなのかについては、事前にちょっと迷った。特に今回、同じ日に神奈川県民ホールでワルキューレ公演があったので、迷いに拍車がかかった。
ところが、行った人の話を聞くと、どうやら相当手直しを入れたらしく、印象がガラリと変わったという。
なんだい、そうかよ。それならそうと事前に言ってくれって。オレみたいに「前回観たから、今回はパスでいいや」と思った人、結構いるんじゃないかなー。
えー、前置きというか言い訳というか、長くなった。それでは蝶々夫人の公演について。
指揮 カルロ・モンタナーロ
演出 田尾下哲
安藤赴美子(蝶々夫人)、カルロ・バッリチェッリ(ピンカートン)、ジュリオ・ボスケッティ(シャープレス)、林美智子(スズキ)、晴雅彦(ゴロー) 他
海外で蝶々夫人をそれほどたくさん観ているわけではないが、外国人が演出し、外国人が着物とかつらを着用して演じる舞台には、相当の違和感がある。
どんなに見よう見まねでやってみても無理。日本風にすることは出来ても日本そのものを描くことは無理。日本の観客は、それがいかに表面的なものであるか、いとも簡単に見破ってしまう。
その点、日本人演出家によるプロダクションは安心。今回の舞台でも、動作や所作に細心の注意が払われた振付が施されており、その立ち振舞がなんとも美しい。
また、シンプルな舞台装置も、それがまた日本らしさを醸し出していて良い。清楚さこそが日本の伝統の美なのである。
だが実を言うと、このオペラの本質は、こうした日本らしさではない。
このオペラで最も重要なこと、それは蝶々さんの「命を懸けてでも己を貫く信念の固さ」をいかに表現できるかにある。
演出家にとっても、あるいは主役を演じる歌手にとっても、これは相当に難しそうな関門のように見える。
ところがこの日の安藤さんはお見事だった。繊細でありながらなおかつ芯の強さを全面に出し、武士道にも通じる蝶々さんの力強い信念を表現していた。凛とした姿、引き締まった表情、切々とした歌唱、すべてが素晴らしく、感動的だった。
実は、安藤さんだけでなく、日本人歌手が演じる蝶々夫人を見ると、ほとんどの歌手がこのハードルをクリアし、強い印象をもたらす。これは驚嘆すべきことである。
いったいなぜか。
それは日本人のソプラノ歌手にとって、蝶々夫人は頂点の役であり、これを歌えるのはこの上ない名誉だからだ。
同時に、蝶々夫人を歌うということはどういうことなのか、この役を引き受けるのにどれほどの覚悟が必要なのかを皆知っている。だから持てる全てを発揮し、歌手人生を賭け、蝶々さんの信念を表現しようと死に物狂いで取り組むのである。
それ故、我々観客は、この凄まじいほどの意気込みを決して決して見逃してはならない。
他の出演歌手やオーケストラなど、全てにおいて満足出来たかというとそうでもなかったのだが、とにかく主役の安藤さんの気迫あふれる歌と演技に感動した。それだけもわざわざ名古屋まで出向いてよかったと思った。
PS
ひろとさん、お互い正反対になってしまいましたねー。とても残念でした。