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2019/10/3 二期会 蝶々夫人

2019年10月3日   二期会   東京文化会館
プッチーニ  蝶々夫人
指揮  アンドレア・バッティストーニ
演出  宮本亞門
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
森谷真理(蝶々夫人)、藤井麻美(スズキ)、樋口達哉(ピンカートン)、黒田博(シャープレス)、萩原潤(ゴロー)   他


蝶々夫人上演において、堂々たる新機軸を打ち出した演出家:宮本亞門氏に、最大級の喝采を贈る。
新機軸を打ち出す-これを日本人が成し遂げることが、いかに難しいか。
その理由は、言うまでもなく、蝶々夫人が日本の物語であり、日本人にとって特別な作品だからだ。
本当は外国の作品なのに。あくまでもイタリア・オペラだというのに・・・。

蝶々夫人を日本人が演出すると、どうしてもそこに日本人の視座が入ってくる。
日本の文化や伝統、礼儀、日本らしさ、日本人の美徳と誇り。日本人として絶対に譲れないもの。
演出の出発点が、まずこのような日本人のアイデンティティの反映と美化になる。
必然的に、舞台装置や衣装、登場人物の所作などを日本化することに専念しがちとなり、発想の転換や解釈の飛躍、演出家個人のオリジナリティなどは置き去りになってしまう。

これこそが、日本人が蝶々夫人の演出で新機軸を打ち出すことの難しさなのだ。

亞門氏は、その壁を飛び越えた。

相当に考えを巡らせたのではないだろうか。
今回のプロダクションは、ザクセン州立歌劇場やデンマーク国立歌劇場などとの共同制作。
海外における現代の演出のトレンドは、いかにして作品に新たな可能性を見出すか、である。
ただ単に日本らしさを作るだけでいいのか。自分が求められている物は何なのか。
舞台に「日本らしさ」を刻みつつ、「日本の」という縛りから解放させるやり方はないものか。

熟考の結論が、蝶々夫人を一人称で語るのではなく、第三者の視点で映し出すことだった。

我が子からの視点。こうすることで、そこに「母への慕情」が加わり、物語に新たな愛が生まれた。

また、慕情という観念に着目することで、想像の世界が展開され、これによって舞台の見せ方が変幻自在になった。
色彩の強調、照明の変化、ゆらゆらと動くカーテン、プロジェクションマッピングによるイメージ投影などは、そこにリアルな舞台装置がなくても、観客の感情を掻き立てることを可能にする。

独自の解釈に基づく主張も、きっちりと植え付ける。
息を引き取ったピンカートンが、天国で待ち受けていた蝶々夫人と再び出会うハッピーエンド。
賛否はあるかもしれないが、亞門氏はここに、物語のテーマである「愛」の一つ可能性を示したのだ。

指揮者バッティストーニの音楽も、筋が通っていた。
彼は、舞台で何が起こっているのか、演出のコンセプトは何なのか、ということについては、あまり関心がなかったように思う。
一方で、プッチーニの音楽、メロディ、エキゾチックな香りや味わいについては、徹底的にこだわっていて、プッチーニならではの詩情と感傷性をとことん磨き上げていた。

タイトルロールを務めた森谷さんは、歌声の成熟というところではやや物足りなかったが、日本人歌手として蝶々夫人を歌う意味をしっかりと理解し、繊細かつ端正な歌唱に徹していたのはとても好印象。

 

最後に、公演や演奏とは関係のないことで、ちょっと皮肉めいた嫌味を申す。
日本人歌手のプロフィールを眺めると、ドイツ在住、ウィーン在住、フランス在住とかいう人、多いんだけどさ。
あのさ、そこで何やってんの?
劇場と専属歌手契約をしているのならいざしらす
かといって、オペラのソリスト出演するほどの活躍をしているわけでもなく。

もちろん、目立たないけど地道なプロ活動をしているってことなんだろうけどさ。
結局、なんだか箔を付けているだけのような気がするんだよな。

「とんでもない! 何をおっしゃいますか!?」
というのなら、それはそれで別に結構ですけど。