クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2014/4/27 二期会 蝶々夫人

2014年4月27日   二期会オペラ   東京文化会館
指揮  ダニエレ・ルスティオーニ
演出  栗山昌良
木下美穂子(蝶々夫人)、小林由佳(スズキ)、樋口達哉(ピンカートン)、泉良平(シャープレス)、栗原剛(ゴロー)   他
 
 
 オペラや演劇の世界では100人の演出家がいれば100通りの舞台が出来上がるように、この蝶々夫人もスタンダードなレパートリー作品として、世界の各地で様々な上演が繰り広げられていることであろう。
 しかし、古今東西あらゆるプロダクションの中で、物語の舞台となっている日本の本質を克明かつ丁寧に描いたものということであれば、もうこの際「この栗山昌良版で決まり」と言っちゃってもいいのではないだろうか。
 
 日本の本質-これを「日本らしさ」という言葉に言い換えてみてもいいが、栗山演出はこの「らしさ」に着目し、徹底的に追求している。
 奥ゆかしさ、簡素さ、繊細さ、清楚さ、謙虚さ・・・日本人が持っているアイデンティティ
 これらは日本らしさであると同時に「日本人の美徳」であり、もっと言えば「日本の美」そのものである。舞台化するにあたり、栗山氏はこれをひたすら様式や型に当てはめていくアプローチを採用した。これこそが大きな特色だ。
 こうした様式化のアプローチは、実は歌舞伎の手法流儀でもある。何百年にわたって受け継がれてきた伝統芸能のスタイルを用いることで、西洋人によって作られた台本と音楽の「日本化」もしくは「西洋と日本の融合」を積極的に試みる。これが栗山版蝶々夫人の最大のポイントである。
 
 これはどんな外国人演出家が見よう見真似でやってみても、絶対に体現を成し得ない。ジャポニズムとして日本風に表現することは可能かもしれないが、「日本風の表現」と「日本らしさの表現」は似て非なるものだ。もはや日本人のDNAを持つ人間しか出来ない芸当。これこそが日本の力であり、日本のオリジナリティと言えるのではないだろうか。
 
 ということでどうだろう、二期会はこれを機会にクール・ジャパン戦略の一環として、本プロダクションを世界の歌劇場にドンドンと売り込んでいったらいかがか。「私達の専属歌手がそちらに出掛けて歌いますから」というちゃっかり抱き合わせ販売で。これからの日本人は謙虚さだけでなく、そういうしたたかさも必要かもね。
 
 今回、唯一の外国人だった指揮者のルスティオーニにとっても、本公演への参加は大きな収穫だったのではないか。演出を通じて、あるいは舞台を創っていくコラボレーションの過程において、日本人気質に触れることが出来たはずだ。それは「蝶々夫人」という作品の根幹につながっているものであり、祖国イタリアで見つけることは難しく、また楽譜にも書かれてないことなのだ。
 それ故、こうした芸術的な文化交流体験がどれだけ作品の理解と解釈に寄与するか、きっとルスティオーニはひしひしと実感したに違いない。ひょっとしたら、指揮者キャリアに多大な影響をもたらしたかもしれないし、そうであったと信じたい。
 
 ルスティオーニはまだ若いので、これからも蝶々夫人を再度振る機会は何度もあるだろう。母国で、あるいはどこか別の国で、もしそういう機会が訪れたら、是非その際には上演に「日本の心、魂」を吹き込んでもらいたいし、そう願わずにはいられない。少なくとも彼は今回の経験によるアドバンテージを得たことは間違いないのである。
 
 同時に、日本人にとっても、今回彼が注いだ音楽の息吹には強い印象を受けた。我々観客にとってもそうだったし、きっと歌手やオーケストラ奏者にとってもそうだったはず。
 
 ルスティオーニが注ぎ込んだ音楽の息吹、それは端的に言ってしまうと「情熱=パッション」だ。
 私はこれまで蝶々夫人を国内海外で15回くらい鑑賞しているが、これほどまでに音楽が生き物となって喜怒哀楽の表情を見せたと感じた公演はない。
 
 これはルスティオーニの感性豊かな音楽性の賜物だ。
 ただし、だからと言って単に「天才」という一言で片付けてしまうのは、ちょっと違うような気がする。
 おそらく彼はひらめきだけで指揮をしていない。スコアの綿密な解析作業に相当の時間をかけたという「努力」の跡が十分に垣間見られた。
 ピット内の彼のタクトを注意深く観察していたが、楽譜は譜面台に置かれていたものの、そこにはほとんど目を落とさず、ほぼ暗譜で振っていた。
 ということは、事前の準備段階ですべての音やフレーズを読み取り、それが何を意味しているのか、作曲家はどんな感情を込めてこの音を導き出したのか、その音やフレーズが物語に与えるインパクトは何なのか、といった考察を加えながら、スコアを頭の中に叩き込んでいったに違いないのである。
 
 一方で、それをどのようにタクトで表現するかということについては、天才性を語らずにはいられない。
 しなやかで弧を描くかのような腕の振り。目や顔の表情を駆使して伝達する豊かな表現力。こうした点については、本能的なものを感じる。更には若さによるエネルギーの発散力とフレキシビリティ。
 何よりも素晴らしいのは、オーケストラをコントロールしつつ、歌手に寄り添う絶妙な距離感。舞台上の歌手は、さぞかし「支えられている」と感じながら歌っていたことだろう。
 
 今回、私は友人のKくん、Iくんとその奥さんMさんの3人をお連れして鑑賞したのだが、Mさんがこの俊英指揮者の才能を見事に見抜いたのには非常に感心した。彼女はオペラという音楽劇が指揮者の統率によって成り立っていることを肌で感じてくれたのだ。これは嬉しかった。
 だというのに、あとのヤツらときたら・・・。第1幕は「ちょっとウトウトしてしまった」だとよ。まったくこれだから野郎どもはダメだよな(笑)。
(冗談ですよ~。また行こうね~。)
 
 
 歌手では、やはりというか主役を歌った木下さんが圧倒的な存在感。以前にも栗山演出の蝶々夫人を歌っている経験があり、さすがの貫禄で安定していた。
 他の役の歌手も概ね好演で、二期会の実力を存分に示していた。個人的にスズキ役を歌った小林さんは、おそらく初めて聴いたが、とても良かったと思った。
 
 そのスズキさんの演技というか演出について、最後に一つ発見したことを述べて終わりにしたい。
 蝶々夫人は自害を決断すると、スズキに対して「坊やと一緒に遊んで」と言う。「おそばにいます」と答えるスズキに、「いいえ、行って。これは命令よ。」
 この瞬間。スズキさんは「すべてを悟った」という演技と表情をしたことを私は見逃さなかった。そして、「由緒ある武家のご息女として、立派にお遂げください。」とでも言うように一礼し、毅然と去っていった。
 
 誇り高き大和魂、名誉を守るために命を投げ出す気高さ、そうした事を召使人であるスズキもしっかりと理解していることを示すこの演技演出。背筋がゾクッとした。