指揮 ダニエル・ハーディング
演出 ロバート・カーセン
アンブロージョ・マエストゥッリ(ファルスタッフ)、マッシモ・カヴァレッティ(フォード)、アントニオ・ポーリ(フェントン)、カルロ・ボージ(カイウス)、バルバラ・フリットリ(アリーチェ)、イリーナ・ルング(ナンネッタ)、ダニエラ・バルチェッローナ(クイックリー夫人)、ラウラ・ポルヴェレッリ(メグ) 他
演奏が終了した瞬間、誰かが快哉を叫んだ。
「VIVA! VERDI!!」
イタリアの歌劇場では、ヴェルディが見事に演奏されると、この掛け声が絶妙のタイミングで飛ぶらしい。どんな作品でも、というわけでもなく、‘終わりよければすべて良し’の喜劇作品ファルスタッフがもっぱららしい。
らしい、というのは、私もそれほど詳しくはなく、またそういう場面に居合わせたこともないから。
掛け声をかけた人は、こうしたイタリア・オペラ事情に相当詳しい「通」に違いない。バッチリ決まれば、回りのお客さんから一目置かれたかも。
ところが、大変残念なことに、他のブラヴォーや拍手にかなりかき消されてしまった。せっかくだったのに惜しかったねー(笑)。
それでも私は叫んだ人を全面的に支持する。本当にそう叫びたくなるくらい素晴らしい公演だった。さすがスカラ座だと思った。
今回の記事、ちょっと「素晴らしい」という単語が連発してしまうかもしれないが、お許しいただきたい。
何と言っても、ヴェルディの音楽そのものが素晴らしい。
「この世はすべて冗談。物事はすべて笑い飛ばせ。」
激動の人生を歩んだヴェルディが最後に辿り着いた人生の達観。突き詰めた末に導き出した究極の愉悦。これらが鮮やかに音楽に盛り込まれている。
次に、ハーディングが指揮する音楽が素晴らしい。
具体的には、アクセントの付け方が上手い。音楽や物語の展開において、オーケストラによる合いの手の打ち方が絶妙なのだ。
ハーディングはただ単に音楽をドライブしているのではなく、楽譜の中に散りばめられたスパイスを目ざとく見つけて、それをグッドなタイミングでぱっぱと振り掛けている。それはタクトを見ていれば分かる。「はいこれ!はいここ!」と素早く的確に合図を送っている。すべてが計算づくで、仕上げは上々。そして効果はてきめん。
他の演目で同じようにうまくいくかどうかは分からないが、少なくともファルスタッフでは大成功であった。
歌手では、タイトルロールのA・マエストゥッリが素晴らしい。
いったい彼はこれまでにこの役を何回歌っているのだろう?
もちろん他にも多くの役を持っているが、間違いなくファルスタッフで一財産を築いているはずだ。歌も演技も堂に入っている。職人、いや匠の域に到達していると言っていい。
カーセン演出は時代を近代に移し、ガーター亭を高級ホテルにするなど、独自の切り口を展開した。大幅な読替えはせず、ハイセンスでオシャレでとても洗練されていた。カーセンにしてはかなり穏当な部類に入るだろう。そのおかげで多くの人に受け入れられたのではないだろうか。ギャグのセンスもまあまあだ。
それにしても、こういうとびきり上等の舞台だと、日本ではお客さんが喜びすぎて、つい勇み足でフライング拍手、フライングブラヴォーが発生してしまうのが痛し痒しですなあ。
最後にカーテンコールでの出来事。
歌手一人一人の呼び出しがあり、続いて指揮者の番になった時のこと。ハーディングは思わせぶりに登場しながら、幕の裏からこっそりとある物を取り出した。
ある物とは、「日本のオリンピック招致の幟旗」であった。
特に何かを語ったわけではない。だが、「東京の皆さん、オリンピック招致決定おめでとう!」と言っているようなものだった。会場がワッと盛り上がり、さらに一段と拍手のボルテージが上がった。
なんて粋な演出! 素晴らしい!
もちろん裏で誰かが仕掛け、ハーディングは単に指示のとおりに乗っかっただけかもしれない。
だが、そんなことはどちらでもいい。ハーディングがこれをやってくれたということが重要だ。
ご存知のとおり、彼は東京で東日本大震災の大揺れを経験している。指揮者人生で最初で最後であろう不入りの会場で演奏会を決行し、その後も何度も来日しては先頭に立って募金活動に勤しんでくれた。彼は音楽を通して我々日本人を励まし続けてくれた恩人なのだ。
どの外国人よりも日本に愛着を感じ、どの外国人よりも日本人の立ち向かう姿を目の当たりにしてきた。彼の「おめでとう!」は、きっと心の底からのものであろう。
もしこのパフォーマンスをやったのが他の指揮者だったら、私は単なるヤラセだと思っただろう。
だが、ハーディングがやってくれたことで、思わず目頭が熱くなってしまったのであった。