クラシック、オペラの粋を極める!

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2019/1/31 シカゴ響2

2019年1月31日   シカゴ交響楽団   東京文化会館
合唱  東京オペラシンガーズ
ヴィットリア・イェオ(ソプラノ)、ダニエラ・バルチェッローナ(メゾ・ソプラノ)、フランチェスコ・メーリ(テノール)、ディミートリ・ベロセルスキー(バス)
ヴェルディ  レクイエム
 
 
当然といえば当然、分かりきっていたことだが、やはりブラームスの音楽作りとは違う。まっっったく違う。
 
前日の感想記事で、私はムーティブラームスの演奏を「語っていた」と書いた。
それは、ブラームスのスコアを読み解き、解釈し、表現するというアプローチを、演奏を通じて提示していたからだ。私は、それを「聴衆に対する語り」と受け止めた。
 
だが、ヴェルディにおいては、そうしたアプローチが見えてこない。
ムーティヴェルディの解釈について語らない。
語らないどころか、そもそも聴衆の方を向いていない。そう感じた。
 
ではマエストロは何を行っていたのか。
シンプルなことだが、たぶん、ただ単に作品の本質、真髄に向き合っていただけではないだろうか。
もう少し迫真的な言い方をすれば、作曲家ヴェルディと魂の交信ではなかったかと思う。
それは、もはや解釈とかいう次元を超えた、作品との同化である。
 
こうしたことが出来る指揮者は限られている。
少なくともヴェルディに関する限り、リッカルド・ムーティ以上にこれを実現可能にする指揮者は現存しない。私はそう見る。
スコアを研究し、ヴェルディが生きた時代を研究し、ヴェルディの意図を探り、ヴェルディのスコアに忠実であろうとする。それを長年に渡って実践してきたムーティだからこそ、ヴェルディの魂の交信が出来るのだ。
 
作曲家から詔旨を勅託された指揮者は絶対である。ムーティこそヴェルディなのだ。ゆえに、音楽は揺るぎがなく、盤石安泰となる。
たとえ年齢的な問題によりタクトを振る腕の力に陰りがあったとしても、それが音楽に影響を与えることはない。オーケストラも、合唱も、ソリストも、皆それを分かっているから、マエストロがリードする音楽に献身的になる。
 
それにしても、この日、歌唱の力はものすごかった。
世界トップ級の精鋭ソロ歌手が素晴らしいのはある意味当然として、特筆すべきは合唱の東京オペラシンガーズ。文化も歴史も言語も異なる日本の合唱団が、ヴェルディを、ムーティの音楽を、完璧に体現していた。驚異的なことだ。