2013年8月20日 ロッシーニ・オペラ・フェスティバル アドリアティック・アリーナ
指揮 ミケーレ・マリオッティ
演出 グラハム・ヴィック
ニコラ・アライモ(テル)、ファン・ディエゴ・フローレス(アルノール)、シモーネ・アルベルギーニ(メルクタール)、ルカ・ティットート(ゲスレル)、マリーナ・レベカ(マティルデ)、ヴェロニカ・シメオーニ(エドヴィージュ)、アマンダ・フォーシゼ(ジェミー)、セルソ・アルベロ(漁師) 他
大げさかもしれないが、本公演は全世界の注目だったのではあるまいか。
ロッシーニ最後のオペラであり、「畢生の大作」「最高傑作」という評価があちこちから聞こえるギヨーム・テル。にもかかわらず上演は世界的にも稀。
上演を困難にしている理由として、作品の長大さ、規模の大きさ(登場人物の多さ、合唱、バレエ)、歌唱技術の難しさ、優秀な歌手を揃えることの難しさなどが挙げられるが、今年、ロッシーニの発信拠点であるROFが、これらを克服し、満を持して世に問うこととなった。
「F・D・フローレス」という最強の武器を引っ提げて。
これはロッシーニオペラを愛するすべての人にとって「待望」「夢の実現」と言えるだろう。ある日本の評論家は、雑誌の記事で「これを聞き逃したら、一生後悔する」とまで書いていた。人によっては、冗談ではなく本当にそうかもしれない。
最大の注目、フローレス。
私の期待も尋常ではなかった。昨年のマティルデ・ディ・シャブランは「伝説の夜」だった。再び神は降臨するのであろうか。
結果はというと、「その片鱗は十分に見せつけた。ただし神の降臨まではいかなかった。」という感じ。
世紀のテノール、不世出のテノールである。その出来具合に不満などあろうはずがない。ただ、他を寄せつけぬほどの威圧感は、昨年ほどではなかった。特に、第一幕において慎重さが見受けられた(ような気がした)のはやや残念。
仕方がないのかもしれない。期待がデカすぎたというのもある。そう何度も安々と神様は降りてこない。
しかも、これだけ長大なオペラだ。ウサイン・ボルトに「400メートルを100メートルと同様に全力疾走しろ」と言っても無理な話。最大の見せ場である第4幕冒頭の超絶アリアでいかにマックスの力を発揮できるか。そこまではペース配分はどうしても必要になってくる。
第2幕でそのフローレスと堂々と渡り合ったのが、マティルデ役のM・レベカ。清らかで伸びのある歌声がアリーナ全体に響き渡り、我々に幸せと歓びをもたらした。
ヴェルディ・コンサートの鑑賞記事で、私は「世界の一流歌劇場の常連になる日は近い」と書いたが、この日の歌唱を聞いてますます確信した。だって、世紀のテノールと伍して一歩も譲らないのだよ!これほどスゴいことはないってば。
主役を歌ったN・アライモ。
2月にアムスで同役を聞いた時は、正直言って物足りなかった。この時のブログ記事では「彼は脇役こそが似合う」みたいなことを書いた。なので今回は期待をほとんどしていなかった。聞く前からブログ感想記事に「荒芋」って書いてやろうと決めていた(笑)。
ゴメン。本当に失礼なヤツ。謝ります。
アライモさん、なかなか良かったのである。一生懸命頑張っていたし、少なくとも2月のアムスからは見違えるようだった。
実は前夜のこと。
我々はとあるレストランで彼を目撃した。先に食事をしていたら、後から御家族を連れてお店に入ってきて、我々の隣のテーブルに座ったのだ。もちろん私はすぐに気がついたが、大柄で堂々とした体格から、オペラを知らない普通のお客さんでも「ひょっとしてフェスティバルに出演している歌手?かも?」と勘ぐったかもしれない。独特の風格があった。
プライベートで食事を楽しんでいるわけだから、そっとしておくべきだったのかもしれない。だが、いかんせん隣のテーブルだったので、やっぱり声を掛けた。英語で。
「アライモさんですよね?明日、鑑賞します。とても楽しみにしています。アライモさんにきっと神の御加護があると思います。」
(日本人にこういう言い方は決してしないが、欧米人に対してはしばしばこの表現を使う。結構喜んでくれる。)
にこやかに穏やかにお礼の返事を述べてくれたアライモ氏。
ということで、親近感、応援したい感が評価を押し上げた可能性もあるのだが、それはまあいいでしょう(笑)。
すべての歌手について一つ一つ感想を書けないが、出演歌手のレベルは押し並べて高かった。アルベルギーニ、さすがだった。ジェミー役、エドヴィージュ役、ゲスレル役、みんな良かった。
ハイレベルな歌手を集めさえすればこのオペラの上演が成功するかと言えば、答えはノー。巨大な作品を手中に収め、作品そのものを際立たすことが出来る優秀な指揮者が必要だ。
多士多才なソリストを統率し、作品そのものを際立たすことを可能にする俊英指揮者がいる。
その名をミケーレ・マリオッティ。
彼のタクトは必見。舞台から目を逸らし、ピットへ向ける価値がある。彼のタクトを注視していると、音楽のすべてが彼から作られていることが分かる。始動、テンポ、デュナーミク、アゴーギク、表情、歌手のブレス、バランス、修正・・・・指揮者がやるべきことを抜かりなく実行している。そしてその手さばきの鮮やかなこと!しかも暗譜!
イタリア人指揮者にありがちな、情熱を全面に打ち出す狂おしいタクトとは一線を画し、ひたすら音楽の進行に神経を集中させているのがいい。
現在イタリアではバッティストーニ、ルスティオーニなど第三世代の若き指揮者が芽を出しつつあるが、その中でも私はマリオッティの総合能力を力強く推したい。
オーケストラのボローニャ歌劇場管も素晴らしかった。前日のオケがちょっとアレだっただけに、余計に上手さが際立っていた(笑)。
演出については簡単に。
G・ヴィックは物語そのものを大きく変えることはせず、舞台を第一次世界大戦前後のオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)に設定し、物語の中に「支配する権力側と従属を余儀なくされる市民」という対立軸を作った。特権階級による横暴と抑圧、それに対する市民の抵抗という構図は、演出的によく描かれていたと思う。
ハプスブルク帝国はこの大戦によって終焉を迎えるわけで、民衆の勝利と祖国の解放という物語は、今回の演出によって史実とうまく辻褄が合う。
ただ、第3幕のバレエシーンでは、特権階級が市民をいじめ、からかい、虐げるように振付されていて、見る側に不快な印象を残し、バレエ終了後にいくつかのブーイングが飛んだ。そのブーイングは演出・振付に向けられたものなのに、あたかもダンサーに向けられたようになってしまったのは、ちょっと気の毒であった。
終演は午後11時半頃。
郊外にあるアリーナから貸切バスで市街に戻り、そこから空きっ腹を満たすため、深夜まで営業しているレストランに入った。
すると、程なくして公演を無事に終え、着替えを済ませた出演者二人がそれぞれお連れさんを従えてお店に入ってきた。この日はギヨーム・テルのチクルス最終公演で千秋楽。打ち上げですねー。
一人目はN・アライモ。おやおや、二日連続でお目にかかれましたなあ。
もう一人は、なんと、指揮者マリオッティ! マエストロ! お疲れ様っす!
この時間にレストランにいる人達はほとんどがオペラ帰りなので、マエストロのサプライズ登場は当然ながら沸き立った。あちこちのテーブルからお呼びがかかる。マリオッティは嫌な顔一つせず、そうしたテーブルを丁寧に巡回し、答礼していた。
いい人ではないかマリオッティ! 気さくで好感が持てるぞ。
我々も、素晴らしいオペラに乾杯。素晴らしい出演者たちに乾杯。おいしい料理とおいしいビールに乾杯。