2013年1月11日 新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだトリフォニーホール
指揮 インゴ・メッツマッハー
J・シュトラウス ウィーンの森の物語
今年最初の聴き初めは、迷った挙句このコンサートに。
もちろん「別に迷うことなど何もない。両方行けばいいだけじゃん。」という人も少なからずいただろう。それは確かにそのとおりではある。
何を隠そう私は、同じ曲を立て続けにコンサートで聞くことをあまり好まない。なぜかというと、続けて聞けばどうしても比較してしまうから。感想が「先日の◯◯に比べて、今回は・・」という風になることが目に見えているから。
それぞれの違いを見つけて、ああだこうだと感想を述べることについては、個人的に「意味が無い」と思っている。だってそうでしょう。違いがあるのは当然のことなのだから。ましてや優劣を付けるなんて。
でもね、そうは言っても無意識のうちに比較し優劣をつけてしまうわけさ。だからなるべく行かない。(絶対に行かないとは言わんよ。)
先入観を持たず、耳をニュートラルにし、フレッシュな状態で音楽を味わう。これは私にとってはとても重要なことなのである。
メッツマッハーと大野のどちらに行くかについては少し迷った。特段の決め手があったわけではない。なんとなくメッツマッハーが聞きたかった。それだけ。
実は、冒頭のウィーンの森の物語については、当初プログラムを見た時、違和感があった。いかにも取ってつけた新年のご挨拶みたいな選曲。これは尖った指揮者メッツマッハーらしくない。オーケストラ側からのゴリ押しに屈したか?
だが、演奏を聞いて「うーむ」と唸ってしまった。全然ウィンナ・ワルツっぽくない演奏流儀。メッツマッハーは一曲目を単なる「お正月の縁起物ピース」と扱っていないことは明らか。
配布されたプログラムには今回の曲目構成についてこう書かれてあった。
「夜が明ける。日が昇り、朝はくる。新しい年がめぐれば、人は初日を前になにかを思う。」
「森林と山岳、自然と人間の生をめぐる多様な想念をこの新年に響かせる」
なるほどねえ。納得。
今回は日常、周期、巡回、循環がテーマになっているということか。そのスタートだからウィーンの森の物語なわけか。そして、だから二曲目は「利口な雌狐」なわけか。アルペンだってまさにそういう曲だもんな。
いや参りました。
上記のプログラム編成も含め、3曲を通じて、メッツマッハーの音楽はすべてにおいて理論的である。
彼は音楽を耳で処理していない。目と頭で処理している。このため、勢いや情感に決して溺れることがなく、クールである。
「音楽はすべて楽譜から成り立っている」
しばしば忘れがちになることであるが、そのことをはっきりと想起させる科学的なアプローチ。これこそがメッツマッハーの真骨頂であろう。
やはり只者ではない指揮者。
今年9月の新シーズンから、メッツマッハーは新日本フィルの「コンダクター・イン・レジデンス」に就任する。これは今後もしかと追いかけねばなるまい。