指揮 飯守泰次郎
演出 クラウス・グート
「二期会の皆様、おめでとうございます。日本でこれだけハイレベルなパルジファル上演に遭うことができ、感激しました。多大な困難を乗り越えて上演を見事に成功に導かれましたことを、心よりお喜び申し上げます。」
日本のオペラ史において、パルジファルの本格的舞台上演はわずかに数えるほどしかない。新国立劇場もワーグナーのほとんどの作品を取り上げたが、パルジファルは未到達である。この至高とも言える超大作を、しかも日本人のみの演奏でやってのけた。画期的なことだ。どんなに賞賛してもし尽くせないだろう。
この快挙は、もちろん総力を結集して臨んだ二期会カンパニーの果てしなきチャレンジ精神の賜物だろうが、そこにさらに二つの大きな力が加わったことで、一層の高みが成し遂げられた。
飯守さんのワーグナーは、まさに名前の一字のごとく‘泰然’としていた。あたかもラインの大河が悠々滔々と流れるようだった。何があってもどっしり構えていて揺るがない。
オーケストラも歌手も、彼に絶大な信頼を置いているのが手に取るように分かった。指揮者の音楽づくりに説得力があり、なおかつブレがないので、安心して演奏出来るのだろう。
こういう安定感抜群の指揮者を、私は他にもう一人挙げることが出来る。ペーター・シュナイダーだ。ウィーンでもミュンヘンでもバイロイトでも絶大な信頼が置かれているドイツ・オペラ界の巨匠。今回の飯守さんは、まさに日本のP・シュナイダーとも言うべき絶対的存在だった。
歌手の皆さんも本当によくやったと思う。相当の練習を積み重ねたのではないだろうか。歌詞を覚えるだけでも大変であろうに、加えてあの演出だ。求められた演技力のハードルの高さは尋常ではなかったに違いない。特にアンフォルタスの黒田さんとグルネマンツの小鉄さんは見事な歌唱だった。最大級の拍手を贈ろう。
さて、肝心の演出について。
さすがグートである。非常に奥が深い。あらゆる所に仕掛けが放たれているが、それらの意味はどれも多角的であり、多層的であり、多元的だ。深い洞察と研究に基づいた「本質」は、演出家にとっては唯一の核心なのかもしれないが、にもかかわらず、見る側の捉え方であらゆる解釈が可能である。舞台という狭い空間に無限の可能性を創造できる才能-これこそが超が付く一流の演出家たる所以であり、そこら辺にいる普通の演出家との明確な差である。
今回の演出を観て、「なるほど、そういうことか」と合点がいったことがいくつかあった。その一方で、私の浅薄な知識と経験だけでは理解に到達できないこともいくつかあった。
だが、演出家はきっと「それでいい」と言うだろう。思考されることを願って、演出家は様々な投げかけを行う。それを受けて、観た者が思考し、何かを感じ、一つでも得られるものがあれば、演出家はきっと「自分の役割を果たした」と満足してくれるだろう。
それでは、私が思考したことを、以下に書いてみよう。
ただし、これはあくまでも私が感じ、勝手に推測したものである。異なる意見が出るかもしれない。上に書いたとおり、見方や角度によって多彩な解釈が生じる舞台なのだ。別に「これが正解」などと宣うつもりはない。御容赦願いたい。
冒頭、第一幕の前奏曲の中で、さっそくグートは謎かけをする。テーブルに座る三人の人物。そのうちの一人が憤然と席を立ち、椅子を蹴って部屋を飛び出す。
彼らはいったい何者か。そして、この暗示はいったい何を意味しているのか。
最終回答は第三幕最後の大トリで示されるのだが、この三人は王家の家族。父ティトゥレルと二人の息子である。兄弟の一人はアンフォルタス、そしてもう一人は、なんと、クリングゾル。兄弟二人の仲違い。部屋を出ていったのはクリングゾル。
なぜグートはこんな突拍子もない設定を敷いたのか。
ヒントはちゃんと隠されていた。階段の上の部屋に置いてあった二つの物入棚。元々そこには「聖杯」と「聖槍」がそれぞれに収められていた。これらは二つが揃って完全。セットで護られていて不可分である。
グートは「聖杯」=アンフォルタス、「聖槍」=クリングゾルとし、分かつことの出来ないものの象徴として、血の繋がった兄弟に当てはめたわけだ。
映し出される「歩み」のイメージ映像。もちろん救世主であるパルジファルの到来を予感させるものだが、見方によっては「家を出たクリングゾルのさまよい」とも「兄弟それぞれが歩む別々の道」と読み取れなくもない。
これによってアンフォルタスは傷を負った。脇腹に受けた外傷もそうだが、弟と仲違いして兄弟関係が崩れたことによる心の傷も同時に負った。だから、第一幕の設定場所は精神科が併設された病院となり、アンフォルタスはそこで治療を受けている。宗教儀式の場面は、音楽療法や催眠療法の治療に読み替えられている。
アンフォルタスとクリングゾルの関係については分かった。
それでは、パルジファルとはいったい何者であろうか。
ここまでの読み解きの流れで、彼が、王家の壊れた家庭環境を修復させる使命を帯びた者であろうことは容易に想像できる。聖槍の奪還とは、すなわち出て行った弟の帰還にほかならない。
だから、ある意味衝撃的な第三幕のクライマックスシーンは、実を言うと私は第一幕を観た段階で何となく予想が出来た。
だが、グートの演出の奥深さはこれだけに留まらない。そこに、ある物が重ね合わさっている。
着目すべきは、演出家が設定した時代。第一次世界大戦の頃だ。フラッシュ映像に映し出されるのは、はからずも戦争へと駆り出された兵士達である。ある者は外傷を負い、ある者は心に傷を負いながらも、戦争の終結を経てそれぞれが帰るべきところに帰る。
さらにもう一つ。
何度となく使用された「歩み」の映像は、みな同じかと思いきや、微妙に異なっている。目を凝らしてよく見てみると、足の大きさや歩測、履いている靴などが変化していたことに気が付かれたであろうか。
これが意味するものはなんだろう。
ひょっとすると、「歩み」とは「時間の経過」ではないだろうか。このことに着目すると、「傷の治癒」も「ケンカ別れして出て行ったクリングゾルが結局戻ってきた理由」も、「戦争の終結と兵士の帰還」も、さらにはしつこいくらいにグルグルと回して展開させる舞台装置も、全てこのキーワードによって説明がつく。
また、時間とは成長を促すものでもある。「パルジファルの叡智への目覚め」は、もちろんクンドリーのキスというきっかけによるものだが、時間の経過による成長がもたらしたものとも考えられるのだ。
・・・うーん、なんか書いていて、自分の推測が少々眉唾な気もしてきた。ひょっとすると深読みのしすぎかもしれない。