マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ
レオンカヴァッロ 道化師
指揮 パオロ・カリニャーニ
演出 田尾下 哲
清水華澄(サントゥッツァ)、大澤一彰(トゥリッドゥ)、松本進(アルフィオ)、澤村翔子(ローラ)、片寄純也(カニオ)、高橋絵理(ネッダ)、上江隼人(トニオ) 他
日本人演出家の多くが、演出とは「物語を舞台の上でどのように展開させるか」としか認識していないのではないかと思える節がある。その際、原典(物語そのもの)はベースであり、不可侵であり、そこにメスを入れるのを極力避けたがる。日本人がオペラを演出すると、大抵がオーソドックスになってしまうのは、そのせいであると私は思う。
一方で、外国人演出家の場合、演出とは「作品の奥底から何が見えるか、それを踏まえて自分は何を訴えたいか」を表現する強烈な自己アピールの手段である。だから、原典を単なる踏み台にしてしまうことについて、遠慮がなく躊躇がない。
以上の傾向については、賛否もあるだろうし、好き嫌いもあるだろう。だが、私自身は後者のやり方を支持する。(目を覆いたくなるやり過ぎ・行き過ぎ演出はいかがなものか、とは思うが。)
そんなわけなので、私は基本的に日本人演出家が手掛けたオペラの舞台に、過度の期待を抱かない。
だが、時々、「作品から何が見えて、そこで何を訴えたいのか」がしっかりと主張された演出に出くわすことがあって、その時は嬉しくなる。
今回の演出がそうだった。
一曲目のカヴァレリア。演出家の出発点は、「なぜ、シチリア島の片田舎で、このような悲劇が起きたのか」であった。原因を徹底的に探ったのではないかと推測する。その結果として演出家が見えたものは、中心となる人物の四角関係に至った経緯と、それらを取り巻く閉鎖化した村社会の構図であった。
この構図について、群衆、装置(斜めに傾いた壁)、小道具(椅子や机)を使い、形象化をひたすら試みる。
一連のアプローチが鬱陶しく煩わしいと感じた人もいたかもしれない。だが、これこそが演出家の主張なのである。
二曲目の道化師も同様。
演出家にとって、この物語は非常に劇画的であり、作り物的であり、それはあたかも昼下がりの三面記事ドラマのように思えたに違いない。テレビカメラの向こうにしか存在しない安っぽくて大げさなドラマ。そこに、女優とプロデューサー(またはディレクター)の不倫関係を織り交ぜ、現実と虚構をテレビ業界の中で上手く交錯させた。
これはもう、レオンカヴァッロのオペラ「道化師」ではなく、演出家の独自の解釈による新たな物語の創造である。だからこそ、カニオはトニオに殺され、本来カニオのセリフである「喜劇はこれで終わりです。」をトニオに言わせるという衝撃のラストシーンを事もなげに創ってしまえるのだ。
作品の深い読込みと洞察によって成し遂げられたこれらの読替え。私は大いに評価しようと思う。
二期会の歌手達は、良く歌い、良く演技をし、熱演だった。特に、道化師のチームについては、演出の意図をしっかり汲み取っていたので、舞台に迫力が備わり、見ていて大いに引き込まれた。
一方で、カヴァレリアでアルフィオを歌ったバリトン歌手は、不安定さを露呈して大失敗。緊張したからだと思うが、プロである以上、言い訳は許されない。
指揮のカリニャーニは、センス抜群。歌に寄り添いながら、イタリア人らしい情熱で音楽を見事に取り仕切っていた。フランクフルト・オペラの音楽監督を10年も務めたキャリアはダテじゃない。