クラシック、オペラの粋を極める!

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2015/12/18 ロイヤル・オペラ・ハウス

2015年12月18日  ロイヤル・オペラ・ハウス
マスカーニ  カヴァレリア・ルスティカーナ
レオンカヴァッロ  道化師
演出  ダミアンノ・ミキエレット
アレクサンドロス・アントネンコ(トゥリッドゥ/トニオ)、エレナ・ジーリオ(ルチア)、エヴァ・マリア・ウェストブルック(サントゥッツァ)、ディミートリ・プラタニアス(アルフィオ/トニオ)、カルメン・ジャンナッターシオ(ネッダ)   他
 
 
最大の注目はミキエレットの演出だ。
彼のプロダクションをこれまでにいくつか観ているが、「そこに目を付けるか!」「それをやるか!」と、毎回必ず驚かされる。視点の豊かさと発想の柔軟さは、本当に天才的だと思っている。個人的に今、一番好きな演出家だ。
 
ところが彼は、ここロイヤル・オペラ・ハウスでやってしまった。今回に先立つ半年前、「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」の演出で、一大スキャンダルを起こしてしまったのだ。
 
もちろん私は観ていないので、詳しいことは分からない。
伝えられた内容によると、ある場面で、女性を丸裸にさせての生々しいレイプシーンを挿入したらしい。観客からの激しいブーイングを共に拒絶反応が起こり、劇場に対し内容を変更するよう圧力もかかったのだという。
すぐに「ははーん、あそこの場面か」と思った。
二年前のロッシーニ・オペラ・フェスティバルでも、演出を担ったグレアム・ヴィックが、権力者が住民を暴力でいたぶるシーンを挿入していたのを思い出した。
ということは、物語の背景を注意深く掘り下げれば、おそらくそこに何らかの必然性が存在するのだと思う。一部だけを取り上げてケチをつけるのは、私自身はプロダクションそのものに対する正当な評価だと思わない。
 
しかし残念なことに、ミキエレットはロンドンの穏当なお芝居ファンを敵に回してしまった。そうした中での今回のニュープロダクションなのである。
 
で、今回私が鑑賞して思ったこと。それは「やはりミキエレットは只者じゃない」ということだ。
 
「カヴァ・パリ」は上演の機会が比較的多い人気作品で、私も多くのプロダクションを観ているが、これほど唸り、「なるほど!」と気付いた舞台は初めてである。
要するに、作品のどこに目を付けるべきなのか、どこに本質があるのかをしっかりと探っているのだ。たまたまギョーム・テルでは一部だけを捉えられてスキャンダルになってしまった。だが、興味本位だったり、単なる思いつきで作る演出家では決してない。このことを、改めて確信した。
(ずっと演出の話題ばかり書いているが、ご勘弁いただきたい。語らずにはいられないのである。)
 
まずカヴァレリアで、演出上、焦点を当てたのはトゥリッドゥのマンマ、ルチアであった。
そりゃ人様からすれば、トゥリッドゥはしょうもない野郎かもしれない。それでもルチアからすれば、かけがいのない息子。そんなかわいい息子を殺されてしまった悲しみとショック。まずここを大きくクローズアップ。これが第一のドラマチックポイント。
そしてもう一つ。
絶望のどん底から立ち上がって目を開けると、そこに同じく悲しみに打ちひしがれている人が一人。サントゥッツァである。
ルチアは思い出す。トゥリッドゥの最後の言葉を。
「もし自分が戻ってこなかったら、サントゥッツァの母になってよね」
遺言に従い、激しく揺れ動く気持ちを込めながら、サントゥッツァを娘として受け入れ、抱きしめる。ここがもう一つのドラマチックポイント。この過程を丁寧に丹念に描く演出の素晴らしさ!本当に本当に感動的!
 
一方、道化師で焦点を当てたのは、カニオの嫉妬に狂った脳内状況。妄想の世界と現実の世界の両方を映し出し、やがてその境がなくなってしまう様を見事に舞台上で表現する。こうすることで、なぜカニオはネッダを殺してしまうのか、その原因と過程を詳らかにしていた。
 
更に鮮やかだったのが、二つの作品の交錯とシンクロナイズ。
二つを並べて上演するにあたり、舞台装置を共有化することで一貫性を持たせるのは、それこそよくあるパターンで珍しくもない。だが、ミキエレットはストーリーの融合にまで迫っていく。
そこで彼が着目したのが、二作品に存在する美しい間奏曲。この間奏曲中のパントマイムで、物語を見事に結びつけた。
 
具体的に説明しよう。
まずカヴァレリアの間奏曲では、次の道化師のネッダとシルヴィオが登場し、伏線を張る。出会い、そして恋に落ちていく二人。スカーフをプレゼントするシルヴィオ、嬉しそうに首に巻くネッダ。熱いキス。浮気の現場なのに、マスカーニの音楽が美しすぎて、全然いやらしくない。
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続く道化師。トニオの口上に続いて幕が開くと、いきなりパリアッチカニオ)とネッダが言い争いをしている。(ただしパントマイム)
「おい、そのスカーフ、いったいどうしたんだ?まさか男からもらったということはないだろうな」
「うるさいわね。あんたには関係ないでしょ?」
「関係ないわけないだろ?オマエは俺の妻だぞ!」
 
道化師の間奏曲。
村人たちが道化師の寸劇を楽しんでいる会場ロビーの一角。そこにサントゥッツァが恋人を失った悲しみで泣き暮れている。その姿をじっと見つめるルチア。やがてルチアはサントゥッツァに歩み寄り、大きな母の愛で彼女を娘として受け入れ、抱きしめる。シーンについて上に書いたとおり。ここでもレオンカヴァッロの美しい音楽が、感動的な瞬間にピタリと寄り添う。
 
・・・もっともっと演出のことを書きたい、つまりポイントとして挙げたいことが他にもたくさんあるのだが、あまりにも長くなるので、そろそろ音楽面に移るとしますか・・・。
 
これまでの自分の中の評価から大きく株を上げたのが、二役を歌ったアントネンコ。いやー、うまくなった!
私が知っているアントネンコは、演技で身体を動かしても、目が動いておらず、だから心の動きが伝わらない、ゆえに歌唱もどこかぎこちない、というものだった。
見違えた。役者かと思ったほどだ。それに、トゥリッドゥ役では本当にシチリア人に見えた。(メイクのおかげももちろんある)
役そのものが激情タイプというのもあるが、見事にそれをこなした。
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私のご贔屓、ウェストブルック。昔のイメージは清楚だったが、今は圧倒的な存在感を醸し出す超大型歌手。歌い方も、一声聴いただけでウェストブルックと分かるほどのオリジナリティを打ち出せるようになっている。立派なプリマ・ドンナだ。
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ネッダのジャンナッターシオも十分に上手い歌手だが、存在感と印象度でウェストブルックにはるかに劣ってしまったのは、アンラッキーとしか言いようがない。プラタニアスは、まあ普通。
 
パッパーノの指揮はさすがの大ホームラン。おそらく演出側と綿密なコラボ作業を行った結果だろう。視覚と聴覚が一体不可分になっている。つまり舞台上にピタリと寄り添っているのだ。更には旋律の流麗さ、オーケストラ音楽の濃密さ、表情の豊かさ。どれをとってもエクセレント。ヴェリズモ・オペラは、まさに彼に合っている。
 
聴衆の反応もすこぶる良好。これは本当に名演、名プロダクションだ。再演も期待できるだろう。「また観たい」と心から思える公演だった。
そういえば、来日公演を果たしたのは、つい3か月前のことだった。その時、カンパニーとしての総合的実力に舌を巻いたっけ。今回もまったく同様。やはり大英帝国は強い。