2012年3月17日 ザールランド州立劇場(ザールブリュッケン)
指揮 上岡敏之
演出 セバスティアン・ヴェルカー
ハルトムート・ヴェルカー(アンフォルタス)、イルジ・スルジェンコ(ティトゥレル)、ルーニ・ブラッタベルグ(グルネマンツ)、ハンス・ゲオルグ・プリーゼ(パルジファル)、オラフール・シグルダルソン(クリングゾル)、ビルギット・ベックヘルン(クンドリー) 他
州の都とはいえ、15万人程度の人口規模でいわゆる普通の都市、収容客席数せいぜい800程度の中劇場である。ミュンヘンやベルリン、ドレスデンといった世界に冠たる一流劇場とは肩の並べようもない。出演歌手のほとんどは、国際的には無名の同歌劇場に所属している専属契約歌手たちだ。
しかし、だからといって、甘く見るのは厳禁というもの。下手をすれば、日本のオペラ団体よりもはるかに上質の演奏を繰り広げる。歌手にしたって、こういう中小劇場での下積みを経て、やがて世界へと羽ばたいていく未来のスター歌手が潜んでいる可能性があるのだ。
それなのに、響きがまったくスカスカにならないどころか、豊潤で、湧き上がるかのように音が増殖していく。
ドイツの歌劇場にランキングがあるかどうかは知らないが(ありそうだが)、これだけレベルが高くてもザールブリュッケンはベストテンの圏外。せいぜい20位以内に入るかどうか。本場ドイツの底力と層の厚さには誠に恐れ入るばかりである。
まず、どんな舞台だったのか、演出について振り返ってみよう。
今回のプロダクションは新演出だが、当初発表されていた演出家から変更があった。ということは、急遽慌ててやっつけ仕事で創られた可能性がある。
そのせいかどうかは分からないが、根幹にある統一的なコンセプトを見いだせず、それぞれの場面や状況に応じた対処療法に留まっている感が否めない。いわゆる‘読み替え’と言われるような、別物語への変換も無し。なので、この演出について、大雑把に「こういうパルジファルだった」と一言で言い表すのは難しい。
ただし、一つのキーワードが示されていた。
第2幕と第3幕において、装置として舞台中央に大きく建てられた文字。「GLAUBE」と書いてある。もちろんドイツ語だ。
私はドイツ語の言葉なんか全然理解出来ないが、この言葉は知っていた。
O glaube, mein Herz, o glaube(信じるがよい。私の心よ、信じるのだ!)
つまり、「信じろ」とか「信念」とか、そういう意味だろう。この言葉が演出コンセプトを読み解くヒント、手掛かりなのだろうか??
だが結局私にはよく分からなかった。この舞台を見たドイツ人、頼むから俺に教えてほしい。
印象的な場面が2つ。
クンドリーのキスによって叡智に目覚めたパルジファル。そのクンドリーとて、磔刑に向かうキリストを嘲笑したが故に永劫の罰を背負っているわけだが、第3幕で、今度はパルジファルが彼女の罪を清めるために、彼女を力強く抱擁し、熱いキスを施した。2つのキスによって起こった奇跡的な覚醒と贖罪。
もう一つ。第3幕の最終場面。パルジファルはアンフォルタスに代わって王座に就くことになり、「王の証」を引き継ぐ。「王の証」とは「傷」。グルネマンツが聖槍でパルジファルの横腹を刺す。血が噴き出て片足から崩れ、痛みで顔を歪めるパルジファル。ふらふらの状態になりながらも、肩を担がれ、王のガウンを着せられ、人々に敬われながら立ち去っていく・・・なかなか衝撃的だった。
我らが上岡さんの音楽について。
日本では、時々とんでもない変化球によって曲者扱いされることがある上岡さんだが、今回のワーグナーは時速150キロのストレートをビシビシ放り込んでいた。この指揮者、こんなにも本格派だったのか!?テンポの設定や響きのバランスは至極真っ当で、奇を衒わない。揺るぎない自信、右往左往せずひたすらまっすぐ進む王道のワーグナー。ピットから時々覗かせるタクトの振りは目にも留まらぬ早さ。
日本人と言えば、この日、花の乙女たちの一人として「カクタユウコ」さんというソプラノが出演していた。この劇場の専属歌手の一人なのだろう。はるばるドイツのこんな一地方都市の劇場で頑張っている。健闘を祈りたい。
この劇場にはもう一人重要な日本人バス歌手がいる。松位浩さん。
それもそのはずで、来月からの新国立劇場のオテッロに出演が予定されている(ロドヴィーコ役)。3月10日のプレミエはアンフォルタスを歌ったみたいなので、その後、私と入れ替わりで日本に来、今はリハーサル稽古の真っ最中だろう。
もうザールブリュッケンに行くことなどないかもしれないのだから、やはり現地で活躍している松位さんの姿を見てみたかった。