指揮 ケント・ナガノ
演出 ロバート・カーセン
ロバート・ディーン・スミス(バッカス)、アドリアーヌ・ピエチョンカ(アリアドネ)、ダニエラ・ファリー(ツェルビネッタ)、マルティン・ガントナー(音楽教師)、アリス・クート(作曲家)、ニコライ・ボルチェフ(ハレルキン) 他
この曲を聴くとね、もうね、音楽に感動して涙がボロボロと止まらなくなる。ヘタな映画やドラマを見るよりもよっぽと泣ける。演奏が多少悪くても、演出が「いかがなものか??」であっても、大抵の場合オッケー。ということで、今回の公演もオッケー(笑)。
終盤のアリアドネとバッカスの二重唱でもメロメロになっちゃうけど、プロローグで作曲家が芸術の神秘性ついて熱く語るところがだ~い好き。世間知らずだけど、音楽の偉大さを一途に信じる作曲家に私は大いにシンパシーを感じるわけである。
このロバート・カーセン演出によるミュンヘン・バージョンは、そんな作曲家をとても大切に扱っているので、非常に好感が持てる。手にしているスコアを指揮者のケント・ナガノに手渡すなんて、粋な演出ではないか!そして舞台の片袖に座って初演に立ち会い、最後まで見届け、無事に上演が終了するとみんなから担ぎ上げられて祝福を受けるなんて、うれしいじゃないか!
ただし。
私は一昨年9月に現地ミュンヘンでこれを鑑賞したのだが、その時の作曲家役だったダニエラ・シンドラムに比べると、今回のアリス・クートは演技が物足りない。シンドラムは、後半のオペラで、ステージ脇に座りながらも、自分が作った旋律(アリアドネのアリアなど)にうっとりしながら身を乗り出して舞台を見つめたり、ツェルビネッタ一座が登場すると「あっちゃー」と頭を抱えるような仕草をしたり、と、非常に演技が細かった。
もっとも、アリス・クートの責任とは言い切れない。シンドラムはプレミエ時のファーストキャストだったので、カーセンが直々に演技を付けたわけだが、再演でキャストが変わってしまうと、どうしても演出家の指示が徹底されずに薄まってしまうのだ。仕方がない。とはいえ、残念である。
ちなみに、主要キャストの流れをざっと挙げてみよう。
1 プレミエ(2008年7月)
指揮 ケント・ナガノ
バッカス ブルクハルト・フリッツ
アリアドネ アドリアーヌ・ピエチョンカ
ツェルビネッタ ディアナ・ダムラウ
作曲家 ダニエラ・シンドラム
2 私がミュンヘンで観た再演(2009年9月)
指揮 ジャック・ラコンベ
バッカス クラウス・フローリアン・フォークト
アリアドネ アニヤ・カンペ
ツェルビネッタ ジェーン・アーチバルト
作曲家 ダニエラ・シンドラム
3 今回来日公演(2011年10月)
指揮 ケント・ナガノ
バッカス ロバート・ディーン・スミス
アリアドネ アドリアーヌ・ピエチョンカ
ツェルビネッタ ダニエラ・ファリー
作曲家 アリス・クート
まあ、お察しのとおり、プレミエは何と言ってもダムラウが出演したわけで、これに勝るものはないだろう。アリアドネとツェルビネッタに関して言えば、私が向こうで見たキャストよりも今回の日本公演の方が断然良かった。更にはアリス・クートも、演技については上で難癖をつけてしまったけども、歌に関してはシンドラムよりも優れていた。ということで、東京でご覧になった皆さん、御安心あれ。
指揮者ケント・ナガノは、以前リヨン国立歌劇場音楽監督時代、ナクソス島のアリアドネの改定前初期版である「町人貴族+ナクソス島のアリアドネ」をCD録音している。これは大変珍しくて資料的な価値が非常に高く、超貴重な一品である。国内盤はとっくに廃盤となっているのが残念であるが。
要するに、ナガノは歴史的な背景・変遷も含め、この作品に対して相当造詣が深いはず。持っている限りの理解と知識を上演に注ぎ込んだ形跡は十分に伺えた。
ところが、この日、終演後のカーテンコールで、ナガノ氏に対して一人盛大にブーイングしているヤツが、私の付近に居た。
ただ自分がたまたま気に入らなかったからという理由で、他の多くの聴衆が味わっている感動の余韻を打ち消すような行動は暴挙以外の何物でもない。指揮者の解釈は人によって様々であり、色々な演奏スタイルがある。指揮者によって音楽が変わるからこそ、クラシック音楽は面白いのだ。どうしてそういう多様さ多彩さを受け入れられないのだろうか。私に言わせれば、度量の狭さを大勢の前で白状しているようなものだと思うのだが・・・。
それに、ブーイングする人って、演奏中「良くない、良くない」って思いながら聴いているわけでしょ?
私なんか、音楽そのものに感動して涙流しているというのにね。
なんか、音楽を楽しむことができなくて、かわいそうな人たちだよね(笑)。