2011年10月8日 新国立劇場
指揮 ピエトロ・リッツォ
演出 ウルリッヒ・ペータース
ヴァルテル・フラッカーロ(マンリーコ)、タマール・イヴェーリ(レオノーラ)、ヴィッテリオ・ヴィテッリ(ルーナ伯爵)、アンドレア・ウルブリッヒ(アズチェーナ)、妻屋秀和(フェランド) 他
心地よくて思わず口ずさみたくなるような名曲アリアの宝庫。数々のヴェルディの作品の中でも、音楽的な分かりやすさと親しみやすさからすれば一、二を争うと思うが、人気の面ではアイーダや椿姫には及ばないし、上演数も決して恵まれているとは言えない。
ストーリーがヘンだからか??
確かに突っ込みどころ満載だが、それを補って余りあるほどの美しい音楽だと思うぞ。それにヘンなストーリーのおかげで、終演後の‘軽く一杯’で、「自分の子を間違えて火に入れるなんて、あり得ねーだろ!?」みたいな話で盛り上がることも出来る、実に楽しくてありがたいオペラなのだ。もっと人気が出てもっと上演数が増えることを望みます。
結果としては、とても楽しめた。十分に合格点だった。
なんと言っても、まずは歌手。ヴェルディはやっぱり歌手が良くなければ。うまく揃った。主役の4人プラス1は、みな一定水準を超えていた。歌手がバッチリ決まれば、もう成功したも同然だ。
トゥーランドットのカラフではやや空回りしていたフラッカーロは、今回はバッチグーだった。演技はイマイチだったが、これは演出家の責任でもあり、マイナス点を付ける必要はなかろう。レオノーラのタマちゃんも、急な代役であるにもかかわらず、よく仕上がっていた。彼女はどの音域も美しく響かせることができるのは武器。しかも、切々と心に訴えて歌うので、聴いていてジーンと来た。
オーケストラもまずまず。指揮者はあまりでしゃばらず伴奏に徹していて、時折テンポや音量バランスで「おや!?」というような微妙なスパイスを振りかけていた。
演出はそれなりに考えさせられた。
常に死神が見守り、物語を支配している。それ自体はどこかで見たようなアイデアであるし、単なる「死の象徴」としてだけ見ると、それでもう終わってしまう。
だが、想像力を働かせると、色々思い当たる物がある。
まず、この死神とは一体何者なのか、ということ。
幕が上がる前のイントロダクションテロップで、「果てしない抗争によって沢山の血が流れた」みたいな説明がなされており、そうした無名兵士の霊と見ることも出来る。
また、先代伯爵、つまりルーナとマンリーコの父ではないかと解釈することも可能である。お互いの素性を知らない兄弟同士の憎しみ合いを諌めているようにも見える。兄弟の決闘で、マンリーコがとどめの一撃を加えようとしたところで、死神が救いの一手を入れるのも、何となく筋が通る。
現世で血が繋がっていないアズチェーナとマンリーコの親子関係があり、‘あの世の世界’で伯爵家の主が死んだアズチェーナの子をかばっている関係があって、運命によって複雑に交錯した人間関係を対比させていると見ることも出来る。
いずれにしても、突拍子も無い物語に真実味を帯びさせ、操作を加えることが出来る役割を死神に与えたという点において、演出の意義は十分に見いだせた。面白かった。たぶん、再演でもう一回見ると、また違った見方ができるのではないかと思う。そういう演出って、いわゆる「良い演出」と言えるのではないだろうか?