クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2011/8/17 影のない女

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2011年8月17日  ザルツブルク音楽祭  祝祭大劇場
演出  クリストフ・ロイ
合唱  ウィーン国立歌劇場合唱団、ザルツブルク音楽祭児童合唱団
ステファン・グールド(皇帝)、アンネ・シュヴァーネヴィルムス(皇后)、ヴォルフガング・コッホ(バラック)、エヴェリン・ヘルリツィウス(バラックの妻)、ミヒャエラ・シュスター(乳母)、トーマス・ヨハネス・マイアー(伝令)  他
 
 
 
 圧倒的なティーレマンウィーンフィルの音楽は後ほど称えるとして、やはりまずは演出について語らずにはいられない。
 
 タダでは転ばないクリストフ・ロイ。一筋縄ではいかないクリストフ・ロイ。
 BSで中継放送されたので、ご覧になった方もいらっしゃろう。ご覧になった方、いかがでしたか?一筋縄でいかないでしょう!?(笑)
 原典からの大幅な読み替え。現代演出が苦手な方は、おそらく即刻拒絶だったのではないだろうか。
 だが、「読み替え」には、そこに演出家の何らかの意図が必ず存在している。演出家は「物語と音楽から何が見え、何が描けるか」について思考に思考を重ね、時に「自分はこのように捉えたが、あなた方はそれをどのように読み取るか?」と観客を挑発する。私はそのような演出家からの投げかけに挑むのが結構好きだ。
 
 とはいえ、今回のプロダクションはやはり難しかった。1回目に見た時は、わけが分からなくて途中で読み解きを放棄し、「アカン。音楽に集中しよっと。」と思った。「はは~ん。ひょっとして、そういうこと??」と何となく読み取れたのは2回目の鑑賞でのことだ。そういう意味で、二回の鑑賞機会を与えてくれたKさんには感謝。
 
 以下、あくまでも‘私なり’の解釈。「これが正解!」などと宣うつもりはない。他のお方で同じような解釈を得て既にブログやHP、記事などで発表していることがあるかもしれないが、私はそれらを一切見ておらず、仮に似たような意見がどこかであったとしても、決してパクっていないことを申し上げておく。
 
 幕が開くと、そこは録音会場。歌劇「影のない女」の収録現場であることはすぐに分かった。
 
 C・ロイ、うまくやったな、うまく逃げたな、というのが私の最初の感想。
 このオペラはお伽話で、天上の魔界があり、人間界との行き来があり、魔法によるトリックが随所に現れる。現代の物語、現代における人間関係、現代人の心理交錯を描くことが得意なロイにとって、それらは‘邪魔なもの’でしかなかったはずだ。「お伽話オペラの収録」とすることによって、それらを上手く回避し、なおかつ録音に参加している人の日常のドラマに移行することができるわけだ。
 
 スポットを当てられているのが、皇后だ。いや、正確に言うと「皇后役の人」。上に書いたとおり、最初に見た時は本当にわけが分からなかったが、二回目の鑑賞の時、彼女が最初から最後までほとんどの場面に登場し(本来はそこにいない場面でも)、バラックとその妻の会話を物陰から聞き耳を立てている様子などを見て、「そういうことか!」とピンときた。
 
 皇后役の人は、幼少の頃の嫌な思い出がトラウマになっており、それをずっと抱え、引きずったまま大人に成長した。
嫌な思い出 - 「両親の不仲」である。
 幼い子にとって何よりも大切な人であるはずの両親が不仲だった。仲が悪く喧嘩ばかりしている親を見て子供心に傷つき、悲しい時代を過ごした。
 
 決定的とも言える事件があった。ある時、クリスマスの合唱の発表会で、父も母も参加して一緒に歌ってくれるはずだったのに、両親は参加しなかった。皇后役の人はこれにショックを受けた。両親が一緒に歌ってくれたらどんなに嬉しかったことか。どんなに素晴らしい晴れ舞台、美しい思い出だったことか。
 
 大人になった彼女は歌手になり、引き受けた仕事の「収録」の現場で、バラック役の男性とその妻役の女性に出会った。彼らは実生活上の夫婦だ。夫婦愛が失われていて、仕事場においても絶えず喧嘩をしている。皇后役の人は、これらの悲しい様子を見て、辛かった幼少の頃にタイムスリップする。当時の記憶がフラッシュバックする。第二幕で、突然収録スタッフの格好をした子供たちが登場してくるのは、そんな彼女の妄想である。
 
 だが、やがてバラックとその妻は試練を乗り越え、ついに夫婦間の愛を取り戻す。その一部始終を皇后役の人は目撃しながら、自身も内なる声に打ち勝ち、自らのトラウマ、精神的な傷を克服していく。
 再び「あの時」、クリスマス合唱発表会。第三幕の最終場。今や自分の脳裏には、晴れやかに父と母が自分と一緒に舞台に立ち、自分と一緒に歌を歌っている姿がはっきり見える。たくさんのお客さんの拍手と歓声。素晴らしい出来事。
 いつまでもつらい思い出に苛まされてはいけない。過去からの脱却、決別。気がつけば将来のパートナーとなる愛する男性(皇帝)が横にいる。全てを克服して、未来へ・・・。
 
 
 それにしても、ティーレマンが構築した音楽は、月並みな表現だが、すごかった。舞台の上で歌手たちが声による饗宴を繰り広げながら、ピットの中で、まるで「英雄の生涯」や「ツァラトゥストラかく語りき」などの大管弦楽曲が鳴り響いているかのようだった。
 なぜこんなにもすごい音が出るのかと言えば、彼がオーケストラのポテンシャルを最大限に引き出しているからに他ならない。ウィーン・フィルのポテンシャルが最大限に引き出されたら、そりゃすごい音がするわな。
 
 では、どうやってそのポテンシャルを最大限に引き出しているのかと言えば、オーケストラの「もっと演奏したい、もっと音を出したい、もっと聞かせたい」という自発的な欲求と主張を徹底的に煽っているのである。そのツボの捉え方と操縦能力は天才的の一言。そしてこの能力はどんなにバトンテクニックが巧みな指揮者もかなわない。カリスマ性の為せる業なのだ。
 
 ドイツにおけるティーレマンの評価は、一部において「既にカルロス・クライバーの域に到達している」という意見が出ていると聞く。伝説の道を歩んでいると言えよう。
 
 ティーレマンは、夏はこのところずっとバイロイトに掛かりきりだった。また来年からバイロイトで「さまよえるオランダ人」を振ることになっていて、その後もトリスタンが計画されているらしい。夏のザルツブルクで彼のオペラを観られるのは今年のタイミングしかなかった。その貴重な機会をすかさず逃さなかったことについては、スマンが自賛させてもらう。